昭和30年代~50年代の地方私鉄を歩く 第16巻 北陸鉄道 - 石川の鉄道掲示板

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昭和30年代~50年代の地方私鉄を歩く 第16巻 北陸鉄道
代打・山本 投稿日:2022年03月21日 07:00 No.136
西脇さんと泉さんの「北陸の鉄路」に続き、またまた楽しい本が出ます。
発売日は4月19日で、Amazonでは今日から予約が可能になりました。
全国の私鉄を巡った記録を32回に分けていますが、その分だけ1回分の内容は濃くなるはずです。
著者は鉄研三田会の高井薫平さんで、当初のタイトル「北陸の電車たち2 石川県(北陸鉄道を中心に)」から改題されていますが、予定どおり尾小屋鉄道は含まれるようです。
出版社の回し者ではありませんが、皆さんぜひ買いましょう。


代打・山本 投稿日:2022年03月27日 18:59 No.139
私とひとつ前のCDRさんの投稿にレスポンスがありませんが、管理人さま、もしや不慮の出来事か何かで、ネットがつながらない場所にいらっしゃったりしませんよね。

心配しています。


管理人 投稿日:2022年03月28日 10:40 No.140
パソコン更新によるトラブル続きでなかなか掲示板まで目が届かず大変失礼をしております。
この投稿もよそのパソコンから発信しています。
誠に申し訳ございませんが本調子に戻るまで今しばらくご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いいたします。


心は加賀人 投稿日:2022年03月29日 22:38 No.142
「昭和30年代〜50年代の地方私鉄を歩く」は、上田丸子電鉄・長野電鉄のを買いましたが、未公開の珍しい写真も多く、楽しめました。
石川県の電車編も期待しています。
4月の19日ですか。会社休んで買いに行く事になるかも…w


代打・山本 投稿日:2022年03月31日 17:38 No.143
管理人様、ご無事で安心しました。

予約したAmazonから連絡があり、発売日が1週間遅れて4月26日になるとのことです。
心は加賀人様、休暇届は4月26日で申請をお願いします。


代打・山本 投稿日:2022年04月23日 07:28 No.167
Amazonからは26日発売と連絡が来ましたが、都内の一部書店や模型店などでは既に発売されているようです。
届くのが待ち遠しいです。


管理人 投稿日:2022年04月26日 13:57 No.168
今日いつもの書店へ行きましたがありませんでした。
代わりに目に付いた第10巻「東武鉄道の蒸気機関車と廃線」を買ってきました。
石川県の私鉄はアマゾンに注文しました。
28日到着だそうです。楽しみです。


代打・山本 投稿日:2022年04月27日 09:52 No.169
うちにも届きました。
これは「北陸の鉄路」と並ぶバイブルであると断言できます。この2冊を読まずして北鉄を語ることはできません。

新たな発見の連続で、特にp117のモハ1601がいる場所は七ツ屋となっていますが、線路の配置や貨車の廃車体があることから山代車庫で、撮影された昭和34年には金石線にいたはずですが加南線の応援に行っていたのは初めて知りました。
50年以上も前のことで、撮影場所や時期、解説文に誤りがあ
るのはやむを得ないことと思われますが、以下にあげてみました。(編集部にもお伝えしています)

p6下 加南線の廃止により→昭和39(1964)年に
p12下 撮影場所 本寺井→宮竹
p16下 駅が廃止になる平成13(2001)年→平成21(2009)年
p26上 場所不明→堤町付近
p27 モハ300形318→312
p43下 撮影場所 大聖寺付近→山代
p44下 モハ5001・5002は鉄道廃止後→昭和39(1964)年に
p46下 唯一新型台車を→「新型台車」の定義が釣り合い梁式などではないとした場合、昭和32年製のモハ3201、クハ1001以降も新型台車となります。
p49上 昭和6年に
p51中 片山津線の動橋ではなく、連絡線の山代です。
p53上 新動橋は~(中略)~連絡線の終点→~動橋線の終点 貨車の授受は新粟津駅が→大聖寺駅が
p53下 遠州鉄道から譲り受けた車両は金石線から転入したクハ1603のほか、浅野川線から転入したクハ1602、金石線から浅野川線を経て転入したモハ3571の3両が在籍しました。
p54中 EB211→EB221
p58~59 前後についていた荷物台は撤去→最初から片側だけでした。
p61上 撮影場所 小松→鵜川遊泉寺
p62下 加南線が廃止されてからモハ1800の仲間は各線に散った→路線短縮や新車の導入で、廃止前から徐々に加南線を離れるケースが多く見られました。
p66上 昭和32(1957)年生まれの古豪→昭和26(1951)年
p66下 サハ1000形を名鉄の台車、電気品で→サハ1000形をモハ1500形の台車と名鉄の電気品で 撮影場所 野々市→野町
p67上 かつて石川線は蒸気機関車を持ち、貨物輸送を→開業当初の軽便鉄道時代には蒸気機関車でしたが、改軌・電化後はED201が就役するまで電車が貨車を牽いていました。
p68上 前面に旧番号の1が残っていますが、この時点ではモヤ541でした。
p68中 説明文はEB122ですが、写真はもと温泉電軌のEB111(←モヤ551)で、p69中の写真と同じ車両です。
p69上 モハ2000形の登場で木造単車は一掃されたが→昭和39年まで在籍しました。
p69中 金石電気鉄道から引き継いだ→温泉電軌から引き継いだ
p69下 モハ631として金石線で使用された→モハ621として金名線が非電化時代の鶴来~加賀一の宮の小運転や貨車の入れ換えに使われ
p70上 撮影場所 白菊町→野町
p73上・中 モハ1504は運転室を広げるため→モハ1502は
p73下 撮影場所 鶴来→新西金沢
p74上 総括制御のモハ3711に→モハ3712に
p74中 台車はサハ1000形と交換しています
p77下 モハ3004とサハ1001の編成→モハ3001とサハ1002の編成 牽引されるサハ2002→サハ1002 撮影場所 新西金沢付近→新西金沢~押野
p78上 撮影場所 野々市→野町 右側から入り込んでいるのは松金線→市内線との連絡線
p79中 撮影場所 鶴来→白山下
p79下 撮影場所 白山下→鶴来
p80上 撮影場所 鶴来→白山下
p84下 サハ612を自社工場で→東洋工機で
p87下 撮影場所 新西金沢→新寺井
p88下 モハ3103は昭和36年にモハ3151に改番しているので、撮影時期は昭和40年ではなく、36年以前になります。
p89上 撮影場所 手取温泉付近→手取温泉~釜清水
p90~91上 撮影場所 新鶴来~鶴来→岩本~本鶴来
p92上【手取川を渡るモハ3701】→【大日川を渡るモハ3701】撮影場所 新鶴来~鶴来→下野~大日川
p92下 台車は北鉄転入時からKS30Lでした。
p94 金石線廃止まで金石線で過ごし、浅野川線へ転じて→金石線から昭和39年に加南線へ、44年に浅野川線へ
p95 貫通扉がある以外モハ3301と似た→どちらも貫通扉がありましたが、金石線では3011が大野港側、3301が中橋側でした。浅野川線を経て金石線へ転じ→金石線を経て浅野川線へ転じています。
p99上 撮影場所 中橋→北鉄金沢 p116下と同じ写真になります。5101が金石線へ入ったことはないはずです。
p100下 国体輸送終了後能美線を去り→昭和24年に能美線を
p101上 大野港まで貨車の出入りは多かった→貨車の出入りが多かったのは金石まででした。
p101下 畝田は数少ない交換可能駅→唯一の交換可能駅
p102下 この時期の電車としては珍しく車体の四隅に独立した乗務員扉を持っている。異様に広い幕板はかつて優雅な飾り窓があった名残である。→木造車でしたが昭和28年に鉄板を貼っていわゆる「ニセスチール化」し、幕板を埋め、乗降扉を狭めて乗務員扉を設置しています。
p103上 金石線のほか隣の浅野川線でも活躍した。→本来は浅野川線の所属ですが、車両不足を補うために金石線にやってきた貴重なカットです。
p105下 撮影場所 中橋となっていますが、周囲が開けているので中橋ではないことは確かです。
p106 撮影場所 中橋→七ツ屋(浅野川線)
p106中 車両不足に苦しんでいた石川鉄道が→北陸鉄道が 登場したのが昭和21~22年なので、北陸鉄道の合併後になります。
p106下 車体を含め、どんな原形だったかは高度な研究に→原形はデッキ仕切りがありましたが、仕切を撤去して客室と一体化し、引き戸を設置しています。湯口徹氏が鉄道史料 で発表しておられます。
p107上 サハ521と同じ簸上鉄道の客車だった。→出自は同じですが、サハ551は金名鉄道を経て北陸鉄道に引き継がれています。
p109中 中橋駅の入れ換えに使われていたDL21の検査入場の代車として駆り出されたものです。
p110上から3枚目 撮影場所 大野港→金石
p110上から4枚目 撮影場所 金石→中橋
p112上 モハ571~573とありますが、ポールがなく、台車の形態からサハ221です。
p112中 サハ220形が2両作られたとありますが221の1両で、もう1両は車体が若干小さく6枚窓のサハ210形211です。
p113上 遠州鉄道から来たクハ1602とありますが、遠州鉄道でモハだったクハ1602には屋根上にパンタ脇の歩み板が残っていました。それが見えないのと、1602は昭和39年に加南線へ転出しており、撮影時期が昭和40年ならばクハ1601となります。
p114 モハ3101は上の写真では貫通側が内灘を向いていますが、下の写真では北鉄金沢を向いています。クハ1650形と編成を組むために昭和37年に方向転換したためです。
p115上 のちに制御車(クハ1151)になって石川線に戻った→3102は国鉄から直接浅野川線へ入線しており「石川線に移った」が正しい表現になります。
p115中 内灘から砂丘を降りたところ→内灘から左にカーブして砂丘の尾根へ向かって勾配を登り、登り終えて右へカーブした先にありました。
p115下 撮影時期が昭和40年となっていますが、駅舎が新築された後なので49年以降になります。
p116~117上 昭和48年に撮影された時点ではいわゆる「バス窓」で、ユニットサッシに交換されたのは昭和62年になります。
p116中 加南線廃止とともにモハ3201とともに→加南線から昭和39年に石川総線へ移り、浅野川線へ移ったのは44年でした。撮影時期が昭和40年となっていますが、早くとも44年以降になります。
p116下 撮影時期が昭和40年とありますが、5101が浅野川線へ移ったのは44年なので、それ以降になります。
p117中 撮影場所 七ツ屋→山代
p117下 撮影時期が34年8月とありますが、後ろに写っている金沢都ホテルが完成したのは昭和38年なので、それ以降ということになります。
p118中 石川総線時代に名鉄から来た車両の電気品に交換→電気品の交換は行われていますが、名鉄出自ではありません。
p118下左 モハ3563とありますが、貫通路の窓の形状から3561です。
p118下右 撮影時期が昭和40年とありますが、背後に車庫が写っており、車庫が完成した49年以降になります。
p119中 撮影場所 粟ヶ崎→内灘
p119下 サハ→クハ 撮影時期が昭和40年8月とありますが、左端に写っている1602は39年に加南線へ移っており、それ以前の撮影ということになります。
p120上 撮影場所 七ツ屋→割出
p120下 もと温泉電軌加南線のモハ1820形で昭和40年に浅野川線へ移動し→もと加南線のモハ1812で昭和46年に浅野川線へ移動し
p121上 サイクリングロードになった区間が多い→ほぼ全区間がサイクリングロードになっています。
p123上 前後に鮮魚台を→片側(羽咋側)に
p124上 昭和28(1963)年→昭和28(1953)年
p125上 撮影時期が昭和42年5月とありますが、キハ5151が付随車化されていないのでp昭和40年以前の撮影になります。
p125下 撮影時期が昭和41年11月とありますが、キハ5211の入線は昭和42年なので、それ以降になります。
p129下 鉄道がなくなった今も駅からの参道にあった大鳥居は残っている→老朽化により昨年撤去されました。
p130上 この機関車の役目はせいぜい構内の入れ換え仕業→スノープロウを取り付けて除雪車としても使われました。撮影時期が昭和41年5月とありますが、キハ5211の入線は昭和42年なので、それ以降になります。
p130下 海水浴の時期にDC302は直通列車の牽引には使われませんでしたが、七尾線の定期列車に増結された客車が羽咋で切り離されて能登線に入る運用があり、その牽引に使われました。
p132上 鉄道廃止まで機械式の気動車だった→入線した翌年の昭和41年に液体化、総括制御化されています。
p132下 後ろの2両は~機関士は2人で→3両とも総括化されているので、1人で
p133 昭和46(1981)年→(1971)年
p135 撮影時期が昭和48年とありますが、路線が廃止されたのは47年なのでそれ以前(客扉が二段窓からHゴムの一枚窓に取り替えられる前)になります。
p139上 単車は緑色とこげ茶色の2種類があり→市内線の単車で焦げ茶色はモハ315が昭和26年から数年間、試験的にボギー車と同じ塗り分けになっていたのが唯一で、それをご覧になられたのでしょう。
p139右 金沢駅前から犀川大橋→最初に開業したのは金沢駅前から兼六園下までの区間でした
p141上 撮影場所 野町広小路→兼六園下
p143 小立野から兼六園下を通り→寺町から兼六園下を通り
p144下 撮影場所 野町広小路付近→野町四丁目~野町駅前
p145上 撮影場所 金沢駅前→県庁前~兼六園下 電車の左側が移転前の石川県庁です。
p146上 製造は大阪の広瀬車両→近畿車両
p146下 撮影場所 兼六園下→出羽町~兼六園下
p149中 昭和13年から金石線でモハ1101として→昭和13年から合併前の金石電気鉄道の15として、24年に1101に改番を経て28年に
p149下 撮影場所 六枚橋~白金町→六枚町~白銀町
p150上 廃止後は名鉄岐阜市内線へ移った→2100形のうち岐阜へ行ったのは2107の1両だけでした。
p153上 六枚橋~白銀町→六枚町~白銀町
p154上 モハ2300形2302→2301 撮影場所 野町広小路付近→出羽町~兼六園下


管理人 投稿日:2022年04月28日 17:58 No.170
今日帰ったら届いていました。
速いですねえ便利ですねえ。
街中の本屋さん大変ですねえ。

さて、代打・山本さんの指摘箇所を先に見るか、それとも自分でどれだけ発見できるか試してみるか・・・楽しみだなあ。


管理人 投稿日:2022年04月29日 14:22 No.171
昨日届きました。
今日は休日、ゆっくりと拝見します。

さすが北陸鉄道の第一人者の代打・山本さんです。
短時間の間によくここまでお調べになりました。

私でもわかる撮影場所の間違いもさる事ながら撮影時期の割り出し等感服しました。
よく見るとまだあるのかも知れませんが、それにも増して貴重な写真は地元の鉄道ファンの私にとっては、ただただ凄いの一言です。

写真をゆっくりため息をつきながら楽しんで見ているのでなかなか先に進めません。


代打・山本 投稿日:2022年04月30日 17:26 No.172
タイトルの昭和30~50年代の中でも、昭和40年の前後数年は新製車両は「しらさぎ」が最後になったものの、他社から譲り受けた車両を改造して投入したり、それに伴う路線間の異動、制御方式の変更による番号の変更が目まぐるしく行われ、いつ頃かを特定しやすい時期ではありました。
場所は線路の配置や周囲の建物で大体わかりますが、p105下のモハ811が貨車と連結している写真がどこなのか今ひとつよく分かりません。浅野川線の新須崎(北陸の鉄路p101下右の場所)かと思いますがどうでしょう。




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