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たらいま
わし
投稿日: 2025年03月23日 07:59
No.966
【返信
】
42才で人生を終えたヤツ。悔しかっただろうなとか切なかったんだろうなとしか考えなかった。親父だって47才だったけど親父の気持ちなんて考えた事は無かった。ただ親父の年を越える頃は嫌な感じがしたな。45才から免疫力や体組織が柔らかく成る為に喘息やアトピーを発症したり逆流性食道炎からの食堂痙攣などが頻繁に起こったりしていた。老眼が始まって眼鏡をかけるように成り歯槽膿漏から4本の歯を失った。68才でもそれら全てが悪化しては行かずに状態を維持したままで居られるのは腕と相性の良い医者に巡り合ったからかもしれない。 今の目標は「ヨメより先に逝く事」だけだ。高度・高額な不妊治療を受けたけれど次女には孫を見せてもらえたし、「英語を話しながら海外旅行に15回も行った。」事や「外車で銀座や六本木へ買い物に行く。」なんて事が出来た人生なんて高校卒業した頃には思い付く事も無かった人生を生きれた。その時に思った事をして来ただけだから、している最中はそんな風に考える事も無かった。仲間が他界して行く事が増えて改めて自分の人生を振り返って気が付いた。「新型メルセデスのクーペで助手席にポメラニアンを抱いた妻を乗せて首都高速を走って銀座へ買い物に来てるなんて考えた事無かったなぁ。」と首都高を走ってる時に思った。「中身はカスカスなのにやってる事はお金持ちっぽい事」ってのがヒンシュクを買う気もするけど・・・。それでも20才で4畳半1間の古いアパートから始めた人生を思えば上出来な人生に思えた。
けしょうま
わし
投稿日: 2025年03月22日 21:56
No.965
【返信
】
今日は30年ぶり位の男性客が来て驚いた。彼は開業時から13年間働いてくれた社員の同級生で大学時代は来店してくれてたようだ。担当しなかったので記憶に無かったけれど、卒業後は商社勤務でフィリピンやシンガポールなどアジア圏の駐在して居て60才と成ったので横浜に戻り親戚の葬儀で実家の川越に来たので白髪を染めてもらおうと30年ぶりに来店してくれたのだった。同級生でもずっと海外に居たのでうちの社員の急逝は知らせてもらえなかったらしく、「彼は13年勤務してくれてたけれど、息子が幼稚園に入る時に土日休みの普通の会社に転職して5年目の42才の時に亡くなった。」と伝えると驚いて居た。うちでは「店を出したり、この仕事で一生食って行く気は無かった。」と言ってたけれど、彼には「先輩が店を出すのでそこを手伝っていずれは独立するから・・・・。」って話をして居たようだった。「オレは社長みたいな仕事ぶりは好きでは有りません。」とか「オレは家族を養って行く手段としての仕事に美容を選んだだけで、一生続ける気は有りません。」と言ってたからちょっと意外だった。やはり彼の母親の影響が強かった気がする。彼の母は間質性肺炎って病気で亡くなったけれど、家を彼の名義で現金で新築したり「私が死んだら生命保険の受取はお前にしてあるからね。」とか「お金に困ったらこれを売りなさい。」と木箱に入った壺を見せられたとか言ってたし、必死に仕事をしなくても大丈夫と刷り込まれて居た。彼の父は仲間と始めた事業に失敗して居て禁治産者と成ってたけれど、母親は仕事をして居なかったしどれだけの預貯金が有ってどれだけの生命保険に入って居たのか分からなかったけれど、実業家でも無い普通の専業主婦が禁治産者の亭主の給料で生活しながらどれほどの金融資産を持って居ただろうか・・・。かれが「もう必死に働かなくて良いや。」と思わせてしまった罪は彼が急逝しなかったら困った事態を呼び込んだに違いないと思った。
か
わし
投稿日: 2025年03月20日 19:32
No.964
【返信
】
思わず吹き出した話・・・。PCを操作している隣でヨメと3才児の孫が創作昔話をしていました。色んな創り話をしていたのですが話題を変えて、ヨメが「昔むかし、おじいさんとおばあさんが川越で暮らして居ました。ある日おばあさんは川に洗濯に行きました。さてその時おじいさんは何をして居たでしょう?」と質問すると孫は少し考えて「おじいさんはピアノを弾いてました。」と続きを言ったので、吹き出して大笑いしてしまった。
まど
わし
投稿日: 2025年03月20日 16:42
No.963
【返信
】
あと4か月で68才に成る。50才位で死んじまうだろうと思って居たから18年も得した感じ。そう思えば毎日がオマケの人生ってわけだ。唯一の目標は嫁より早く死んで行く事。だからもしも癌が見つかっても受け入れて行く所存だ。ただし緩和ケアっていうのだろうか?痛みと苦しみを除いて行く治療はお願いしたい。親父の人生や親友の人生を思えばオレは十分にこの人生を楽しむことが出来た。価値観は人それぞれだから当人はちゃんと充実した人生を生きたに違いないと思う。ただオレが父だったり親友だったりした場合に「オレはそれに付いてそんなに我慢はしない!」とか、「そこはオレとは違う選択だよ。」って部分から彼らの人生はオレには受け入れ難いモノって事に成る。
4畳半1間で共同トイレのアパート暮らしからオレの大人としての暮らしは始まった。東京から日光に帰る時に弟が借りて来た外車(オペル)で帰る事に少々の優越感を感じた。「東京から外車で日光に帰るんだ。」って感じでねぇ・・・。結婚して独立開業して外車を乗り回して銀座やお台場・表参道に買い物に出かけた。2年に1度の割合で海外旅行に行った。ホテルも飛行機も個人で手配して英語を話しながら空港からレンタカーでホテルに行き荷物と車を預けて午後に成ったらチェックインしてレストランの予約をしたり、予約して置いたショーのチケットをピックアップしに行ったり・・・。チェックイン時には部屋をアップグレードしてもらったり、レストランでは席を選ばせてもらったり・・・。今ならスマホで簡単に出来るのだろうけれど当時は得意満面だった気がする。
た
わし
投稿日: 2025年03月19日 22:20
No.962
【返信
】
インターン生として初めて勤めた美容室はオレ以外の新入社員はオレより数日先に入社式を終えていて、日光からの引っ越しとか有って1人だけ後から出社する事に成った。社員用通用口とか知らなかったので、デパートの開店と同時にエレベーターでお客さんと一緒にお店に入って行った。50人位居る店で大きなフロアを3つに分けてA班・B班・D班となぜかC無しの3班での営業体制だった。オレが新入りでしかも開店してからの出社なので1年生だけ10人位別室に集合されてオレ1人が前に先生と並んで立たされて「栃木県の日光市から来た鈴木君です。自己紹介をお願いします。」と紹介されて「日光から来ましたスズキショウジです、どうぞよろしくお願いします。」と日光訛り(自分では標準語で言ったつもり)で挨拶をした。男2人と女性が9人かな順番に名前を言って挨拶した。男2人なので名前は直ぐに覚えたけれど、女性は同じ班に成ったミヤギさんと声が小さかったのでシラサワさんと聞こえた(後でシラスナだと分かった)2人しか覚えなかった。仕事は床の毛を掃く事と先生に頼まれたパーマのロッドを揃えたり、時間を持たされて薬を付けたり・・・などなど雑用だけだった。そして仕事が終わると掃除をして練習会に成る。控室に名前と出来る仕事に丸を付けられる票が張られて、ヘッドマッサージに始まりハンドマッサージ・シャンプー(ショートとロング)・ワインディング(パーマを巻く)・ヘアダイ塗布・バック・ブローとお客様に係わる仕事をパスして行く仕組みだった。1年の間はその店の下仕事を覚える事と国家試験の練習ばかりでカットの練習は全く先の話って感じだった。2年生に成って後輩が入社して来て初めてカットの練習が許された。作りたいスタイルにカットするには髪の毛をブロッキングと呼ぶ分けて部分的に切って行く教え方だった。「櫛で髪を頭皮から何度に引き出して何度の角度で切る。」みたいな感じを繰り返した。各個人の頭に形に髪の量と毛質・毛流によって全く同じ切り方をしても違う形に成ってしまう。リクエストを叶えることが出来ない場合も有る事を見抜けないと失敗作を作ってクレームに成ってしまう。もっと簡単に考えてたから悩む事に成った。色んな仕事を知る内に撮影の仕事や講習会の仕事とかに興味も出て来た。そういった仕事をする先生に出会って岐阜に行く事に成ったけれど、何人かの芸能人の髪を扱う経験も出来た。(荒木祐子、酒井幸恵ピンポンパンのおねえさん、朝岡雪路、向井亜紀)だけだったけど。
さるま
わし
投稿日: 2025年03月19日 20:09
No.961
【返信
】
自分で選んで生きて来た人生。
もう一度20才からやり直せるとしたらどう思う?
人生の選択をした分岐点が有っただろう。
あそこで別の道を選んでいたら・・・?
「私は真剣に選んだ。」と言えるだろうか?
その時は真剣だった気がするけれど。
熟考してはいなかった気がする。
選んでしまったのだから続けるしか無いと思った気がする。
それでもこの人生を後悔する事は無い。
じぶんは一生懸命に生きた結果と思って居る。
い
わし
投稿日: 2025年03月16日 08:00
No.960
【返信
】
東京が好きだった。東京で成功したかった。成功の形は想像出来なかったけれど、ミツルには「十分成功出来た方だよ。」と言われたり、「自分の幸せに気付いて無いよ君は。」とか言われたりもしたけれど。最初の頃は「目標とは想定の120%を目指す事」と捉えていた。結婚直後に就職した時に「毎年2割増しの成長が出来ないと膨らむ日本経済に追いついて行けない。」と会社の社長に要求されて居た事の受け売りだった。それでも現実的に想定しても100%とする数字が叶えば色んな道が開けて来るのは理解できた。ところが実際はいつも目標の7~8割までしか届かない。そして溜息ってのを繰り返していたから出る言葉は愚痴ばかりだった。 いつでもオレにはミツルの経済力が憧れだった。彼は毎月15万円位が2回有った。しかも家賃と食費が無い。同じ時期にうちは家賃と食費だけで20~25万円位は東京の杉並のアパート暮らしで必要だった。それを足せば彼は月給50万円位有った感じだっただろう。オレが独立してからも借金返済が月に50万円位有って、家賃は無かったけど電気・ガス・水道・電話などは払って、食費だけを6万円母に渡す暮らしだった。税務申告上は年収800万円位が続いたけれど、返済額を引けば年収200万円の時と変わらない暮らしぶりだった。だから8桁の借金を抱えて居ながらも、35歳でミツル家族とサイパン旅行出来た時は夢心地だった。相変わらずミツルは行けて当然の暮らしだった(両実家から10万円づつの餞別をもらえたり)けれど、そんな彼と家族を連れて海外旅行出来て居る自分が気持ちよかった。
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