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伊豆中央高校の河津桜が ウッチー 投稿日: 2024年01月29日 16:47:35 No.654 【返信】 (0回)

荒神さんに『とうだんご』を買いに行ったのだが
残念ながら売っていなかった
だるまを売っているいるおばさんに聞いたら
団子屋さんはコロナを契機に商売をやめたようで
残念なことに荒神さんからあの名物の『とうだんご』は消えてしまったらしい。

帰り南條のエースに寄った後、堤防に出て河津桜の様子を観察した
殆どは『つぼみ』だったけど一本だけ満開の桜があった
女房曰くあれは「寒桜」じゃないかという
確かに河津桜にしては花が小さいように見える。

とりあえずつぼみの河津桜と寒桜と思しき桜の写真を載せます。


南條MH 投稿日: 2024年01月29日 17:07:12 No.655 (0回)
妹は昨日行って来たと言ってた。日曜日の所為か、例年より賑やかだったとか。
山への階段は「渋滞」があったそうな。低速や停滞の人が多いからか。
「とうだんご」残念だったね!


たいこんじんば 南條MH 投稿日: 2024年01月27日 15:25:38 No.650 【返信】 (0回)

これ何?って感じでしょ?
山木の祖父の家は屋号が「お茶屋」。京都で言う「お茶屋」ではなくて、日本茶の生産、そして加工。勿論「手もみ」。直接の販売もしてたかな。広く流通するほどの量は無かったと思うけど。
山やあちこちに広い茶畑があって、八十八夜から一か月位は忙しかった。当時、山木ではイチゴが盛んになっていたけど、祖父はイチゴはやらず、現金収入はお茶に特化していたんじゃないかな。
我々子供は休みにはお茶摘みの手伝いや、家では毎日夕方集まってくる生葉の計量や仕分け、早朝からの「蒸し」の仕事の手伝いがあった。自分の畑のお茶だけでなく、持ち込まれたお茶の加工もしてたから。学校に行く前に朝早く起こされての作業は楽じゃなかったな。よく文句も言わずやってたもんだ!
今、振り返ると、あの手もみの光景、なんで写真に残しておかなかったんだろうと後悔。「ホイロ」と呼んでた台の前に、屈強なオジサン達が背中に汗をにじませてお茶を揉んでる姿、残すべきだった。
その茶畑の中に、一時間位山に登った所に「たいこんじんば」と呼ばれる畑があった。意味は分からずただそう呼んでた。その畑に行った時は、まず私たちは谷間に行って水くみ、そこが気持ち良い所で行くのが楽しみだった。
ずっと大人になって、そこは「太閤陣馬」だと知った。豊臣秀吉が小田原北条氏(
=後北条、義時の北条とは違う)を攻める時、その支城である韮山城を俯瞰する場所に陣を張った跡とのこと。「たいこんじんば」や「だいこんじんば」ではなくて「タイコウじんば」だった。
今は山木の家もお茶はやってないし、あの辺りはどうなってしまったか全く見当もつかないけど、そういう「陣跡」を探すマニアがいるらしく、藪になっているという写真がネットに掲載されているのを見て驚いた。
ウッチー 投稿日: 2024年01月27日 17:20:31 No.651 (0回)
【太閤陣場】でネット検索したらいきなりヒット 山木や韮山など無しで!!!!。
二枚目の写真にはその案内板とおぼしきものが写っている 日通富士見ランド道路から南に入ったあたりだろうか ここを
更に南に進むと香山寺のところに出ると思ったけど。僕たち私たちは歴史のある町に生まれて鼻が高いね。


南條MH 投稿日: 2024年01月27日 17:46:22 No.652 (0回)
そう、山木の家から、上がっていくと最初に「お宮さん」、そこからまもなく「香山寺」の横に出る。さらに上がると左右に分かれ、このY字の所に水場があって、まずそこで牛や馬に水を飲ませた。「太閤陣馬」は左手に上がっていく。しばらく行くと、一本松という場所があってそこでまた休憩。そこからはまもなくだったような記憶。この道も残ってはいるんだね?そうか、今はその新しい道から入って行くような感じなんだ。
山の畑の話のついでに、この「太閤陣馬」からさらに一時間くらい遠い所・東側にも畑があった。「おきあらく」って言ってたけど。そこには小さな小屋もあって煮炊きができるようになってた。近くに「おおさわさん」という家族が住んでた。グラジオラスを作ってた。(ポツンと一軒家だ!)少し上の女の人がいたような気がするけど、学校なんかどうしていたんだろう?
この一番遠い山の畑に行く時も上りは歩いて行った。帰りは牛車の上で、早く駆け下りようとする牛にブレーキをかけるために、ブレーキとなる木の棒にしがみついていた。


あの頃の我が家のお寿司と言えば ウッチー 投稿日: 2024年01月26日 13:45:12 No.648 【返信】 (0回)

かんぴょうの海苔巻 お稲荷さん、それにピンクのでんぶとマグロフレーク
これらは「型」の底に敷いて酢飯を詰めてポンと手のひらにひっくり返して完成。
小ぶりのシイタケは丸ごと煮たものを「型」から出した酢飯の上に乗せて
出来上がり。
おふくろは乾燥シイタケを煮るとき、ボクのリクエストに応えて軸も煮てくれた。
味のしみた軸をおやつ代わりに食べるのが至福の極みだった。

ネット検索したらシイタケのてまり寿司というのが見つかった。
さすがににぎり寿司風はなかったね。


これも前に書いたことあったかも。
 


南條MH 投稿日: 2024年01月26日 14:11:47 No.649 (0回)
そう、あの型に入れて作るのは子供の役目だったね。
わが家では、あと人参を細切りにして甘く煮たのを乗せたもあった。卵焼きもあったけど、今みたいな厚さは無かったな、透けてご飯が見えてたから。
私が今、「おさしみ」食べられないのも、きっと「食べた事なかった」からだ!
シイタケも食べられない。大人になって食べる努力はしてるけど、生の魚は今もノーサンキュー。一句石でもお刺身の鉢は隣に回した。


1月28,29日は荒神さんのお祭りです。 ウッチー 投稿日: 2024年01月26日 08:27:15 No.646 【返信】 (0回)

正式には三宝大荒神社祭。
火伏せの神様として有名で近隣から多くの参拝者が訪れるようです。

そんな荒神さんのお祭りについて浦島Tさんから聞いた思い出話し。

それは中学3年の時 学校が終わった午後、セーラー服のままクラスメイトのとみちゃんと二人で
高鳴る心臓の鼓動を抑えつつ砂利道を歩いて荒神さんのお祭りに。
あの頃と言えば8月の三島大社のお祭りしかなかったから、露店がずらっと並ぶ光景は
少女たちにもとっても心ウキウキだったのです。
しばしの感動の後、余韻に浸りながら帰路へ
韮高の横を歩いていたらとみちゃんが追いかけてきて
紙にくるんだお母さん手作りのお寿司をお土産にいただいて痛く感動したと。。

昭和37年1月29日月曜日午後の出来事。

何か3~4年前に同じような投稿をした記憶がないでもなしですがー-


南條MH 投稿日: 2024年01月26日 11:37:18 No.647 (0回)
はい、前に聞いていますけど、お互いにそれは咎めないことにしましょう。私もきっと何回も言ってる。長く生きているとどこで何しゃべったか忘れてることもあるもんね!
南條の我々には「荒神さん」はもっと身近。「荒神さんの名物はやし(香具師)にこんじ(乞食)にとうだんご」と囃してた。
この28日・29日って天気の荒れた日の思い出が多く、強風の中、田んぼの中を東に向かって一直線に歩いて行ったことや、雪がちらついた年もあった。酔っぱらたおじさんが馬を制御できなくて馬が暴れ怖かった時もあった。
あの近くのどこかの家、真如だったと思うけど、そこでそう「お寿司」をご馳走になった。それがどういう関係の誰の家だったか覚えていない。共和分校の志太つぎ先生のお家だっかも。
南條の妹は、律義に今も去年の「お札」を返し、新しいのを貰いに上まで行ってる。「あそこまで登れなくなったらお終いだ」と言って。
こないだの話題の4年の鈴木先生、正しくは「啓子」先生だった。通信簿見て確認した。
(通信簿はこれも前に話したかもしれないけど狩野川台風で家と一緒に流れたのを「缶」に入っていたのでどういうルートでか手元に戻って来ていた。)


富士山 南條MH 投稿日: 2024年01月24日 17:42:49 No.644 【返信】 (0回)

今年は年末頃からほとんど雨が降らず、ということは富士山には雪が降らず、まるで初夏の頃の富士山のような景色だった。写真は19日。「白い富士山」ではなくて「青い富士山」
それが東京に戻る前の日、21~22日は韮山も雨だったのできっと富士山も白くなってるだろう!写真は23日帰京の途中、新東名の間もなく東名と合流する辺りから。冬の富士山はこうでなくっちゃ。




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