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「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」 ( No.70 )
日時: 2021年04月14日 18:39
名前: 福島雅彦 [ 返信 ]
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※これ等を国名との思い込みで、先哲らは何百年×何百人も掛かって、空しい研究を続けてきた!

*これらが、「倭人」が発する「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」の音写である、と私が看破した。

・「邪馬臺國」=「卑彌呼」の居所説明文言の一部である。

・『後漢書』には「大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)」との註が付いている。「倭語」の訛りである、と。

・「邪馬壹國」=邪摩惟と通音、訛の範囲である。

∴「卑彌呼」の居所説明文言の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」である、が導き出せる。

*「邪馬臺國」=3).「邪馬臺國」は「やまたい國」では無い!

漢字は一文字一音節である。「臺」=“ta-i”の二音節ではなく“t-ai”

「やまたィ・やまてェ」の九州弁の強調語尾「やまですヨ!」の意味の当て字。

「卑彌呼」の居所説明文言の一部を国名と勘違いしている。

中国書記官の問い=「女王卑彌呼は何処に坐すか」と。

「天(あま・あめ)たィ!」と「高天原」の意で答えた。九州弁=「蟻」を「ヤリ」と訛る。

「邪馬」=「天(あま・あめ)」の九州弁訛。「天(あま・あめ)」・「高天原」の語源は次項で述べる。

*「邪馬壹國」=「やまいち國」ではない!

漢字は一文字一音節である。中国の書記官の認識では「壹」は“i-chi”の二音節ではない。

“yi”の一音節である。「邪馬臺國」の項でも述べたが「邪馬・邪靡」は「天(あま・あめ)」の九州弁訛り、と。

では、“yi”は「倭語」の何を音写したのか。“wi”「うヰ(上)」の意を“yi”の訛りと受取られた。

「卑彌呼」の居所説明文言の一部を国名と勘違いしている。

『後漢書』の記載を知っている書記官が後世の使者に問う「今でも女王「卑彌呼」は「邪馬臺國」に坐しますか」と。使者は「邪馬臺國」が何か判らなかった。その様な国名の地は無いから…。

だが、「卑彌呼」の居所を問われたのは理解した。曰く「「天(あま・あめ)」ンうヰ(上)」と、上を指して一本指を立てた。前史の書記官が「臺と壹」とを書き間違ったと理解した、か。これ等が国名ではなかった、と『隋書』が証明している。

*『隋書』では「邪靡堆」=「倭國」への行程=「上遣文林郎裴(世)清使於俀國」=現地に来ている。

「上(煬帝)が裴世清を俀國へ使いとして遣す」=倭國の都へ到っている。

・「度百済行至竹島南望[身冉]羅國経都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國」=「(黄海を)度って百済に行き(上陸して)竹島に至る、南に[身冉]羅國を望み(再出航して)迥か大海の中に在る都斯麻國を経て(寄港しないで)一支國に至り(寄港して)又竹斯國に至る」。

・「竹斯國」に至るも、「末盧國、伊都國、「奴國—1」、不彌國、「奴國—2」、投馬國」の国名を挙げていない。これらは国情説明文言の一部を国名と勘違いしている、から記録しなかった。

・竹斯國の東に「秦王國」に至る、とあり「其の人は華夏(中国)におなじく…」とある。「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖ン(の)國」=徐福の興した國であり、「漢ン(神)祖(前=さき)郡」=「神崎郡」(好字二字令)が発展的に豊前へ。

3).裴世清が見た「倭國」の都

*「其地勢東高西下都於「邪靡堆」則魏志所謂「邪馬臺」者也古云去楽浪郡徼及帯方郡並一萬二千里」

・「東高西下」とは東が高く西に下がる地勢で、一望できる範囲の水縄連山(耳納山地)の山容・山態と筑後川の西流を指している。

・「魏志に所謂「邪馬臺」とは、(「臺」とは女王の宮殿の意かと)来て見たら、「邪靡堆」(黒髪靡く堆い小山)だった」と合点している。

この地は楽浪郡徼・帯方郡より萬二千餘里。伊都國まで萬五百里=伊都國の南千五百里に在る。

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Re: 「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」 ( No.74 )
日時: 2021年04月15日 12:10
名前: 福島雅彦 [ 返信 ]
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※前項で「邪馬」=「天(あま・あめ)」の九州弁訛。「天(あま・あめ)」・「高天原」の語源は次項で述べる、とした。

※「高天原」

(1).『古事記』書き出し、神話の舞台で神々がいる天上界の事。

「天地初発之時 於高天原成神 名天御中主神<訓高下天云阿麻下效此>次高御産巣日神次神産巣日神 此三柱神者  …」に、<訓高下天云阿麻下效此>と註がある。

即ち「高天原」の「高」の下の「天」は「あま」と読み下は此れに效く(倣う)、とある。

何故「天」を「あま」と読むかは触れていない。既に「古代倭語」の“아메-”(a-mæ-)の意味が忘れられていたか、或は何かを隠ぺいするためか、舞台を天上界の事としている。

*此れは太安万侶が、時の権力者から隠蔽を命じられて天上界を思わせる表現にしたが、反骨精神から後世の賢者が読み解ける様に伏線を忍ばせている、と観る。

・私は、地上の事として発見。この神話の聖地を通説通り「タカマガハラ」と読んでいては地上の場所は見つからない。「たか・あま ン ばル」と読む。「ン=の」の格助詞。

*「高」=高低の意ではなく、寄って「集(たか)って」の当て字で 朝鮮語“다가-”(taka=[傍へ寄り付く、寄り添う、近付く、詰め寄る(民衆書林・韓日辞典)]と同じ語幹。

*「天(あま・あめ)」とは…。

(イ)“아-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。
東(あづま)(あ・詰(つま))=東の端。朝(あした)、明日(あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。
朝鮮語の朝=“아침”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。

NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号。

[ハングル物語―母音字はどうつくられたか]
母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。
母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ。≪一部抜粋≫

(ロ)“메-”(mæ-)の母音は現代朝鮮語では“e”となっているが、本来は“æ”の発音記号で「ま・め」の中間音。故に「天(あま・あめ)」の両方の読みがある。“메”=「山」の古語的表現(民衆書林・韓日辞典)。

・「山」が(やま)なのは「天(あま)」の九州弁訛り。「蟻」を「やり」と訛る。
「山」が「や・ま」なのは「東の聖なる山」の意の限定用語が一般の「さん」にも拡大したもの。「水縄山(みのうやま)」の他は殆どが「さん」。

・「ま・み・む・め・も」は全て「膨れているもの」を表す。
脹らんでいる物の総称「ま・め」⇒「豆」の語源か。

・「ま」=「眼(ま・な・こ)」=「な」は格助詞。「こ」=“곳”(god)=処。
     格助詞が「な→ン」に変わると関東弁の女陰の隠語になる。
・「み」=実、果実は殆ど丸く膨らんでいる。

・「む」=「六つ」=家屋に象る=地面から突き出ている。陸(むつ)に同義。

・「め」=「目・芽」は膨らんでいる。
 「め一杯」=山盛り一杯。“곳”(god)=処が付くと関西弁の女陰の隠語。

・「も」=幼児の排便の始末の時「も」しなさい=お尻を突き出せ。もっこり。

∴「天(あま・あめ)」は「(国の)東の聖なる山」の意となる。

*「原=ばル」とは、“벌”(beol)=[原;野原(民衆書林・韓日辞典)]で、筆者註としては、「耕作地=邑」である。

※従って、「高天原」=「東の山(聖地)に寄って集(たか)っている原」。
水縄連山(耳納山地)の東の端のうきは市(旧・浮羽町)の狭い谷間に、百箇所近くの「○○原」の字地名が犇(ひしめ)いている。此地に「日向」の地名が現存。朝日に向いた地の意で「筑紫の日向」(国生み神話の舞台)である。
他にも「○○日向」の地名が十二ヶ所。

「浮羽」の地名も[旭日原] =“욱일벌”(u-kil-beol)の語尾子音欠落発音であり、漢字音由来なのは、「徐福」渡来後の影響か。「高天原」=「阿斯達」とも同義。旧・浮羽町役場は「朝田」=「阿斯達」と同義。

≪「水縄連山(耳納山地)」は谷沢に刻まれた東西25㎞の保水力のある水源の山である。稲作に必要な水量を必要な期間供給、棚田稲作の穀倉を潤した。『記・紀』神話は弥生文化の産物である。今の平野部は未だ低湿地の荒野である。≫

*「高天原」の東西の入り口に「三春原(うらせばる)」と「牛鳴(うしなき)峠(とうげ)」がある。

・「三春原」は「うらせばる」と読む。東側にあるが普通では読めない。
“울쇠-벌”(ul-soe-beol)=「鳴く鉄・原」(直訳)=鉄が唸る原(意訳)。

・「牛鳴峠」=“쇠울”(soe-ul)峠=「鉄鳴く峠」=鉄が唸る峠。鉄⇔牛は同音。

・“울쇠”(ul-soe)=「五月蝿い」の語源か。製鉄の音は「ウルセェ!」。

・「高天原」には、東多々羅、南多々羅、西多々羅と製鉄地名がある。
方位から見て北風自然送風の製鉄炉か。「素盞嗚尊」追放前の製鉄集団跡か。

・「高天原」には「諏訪神社」=「“쇠-와”(soe-wa)鉄来る神社」がある。
古代に在っては、鉄を制する者が国を制した。「高天原」の東西の入り口が製鉄絡みの地名である。韓国の首都の“서울”はこれの訛りを疑う。


Re: 「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」 ( No.107 )
日時: 2021年04月18日 18:37
名前: 福島雅彦 [ 返信 ]
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標題は、「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」=「高天原」とするべきでした。

追記します。


Re: 「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」 ( No.152 )
日時: 2021年05月01日 12:48
名前: 福島雅彦 [ 返信 ]
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※『後漢書』=「邪馬臺國」、『三国志(魏志倭人伝)』=邪馬壹國、『隋書』=「邪靡堆」。

*「梯儁」も「塞曹掾史張政」も「邪馬臺國」にも「邪馬壹國」へも至っていない、と前項までの拙論から謂える。
・「裴世清」が其の都「邪靡堆」=古の「邪馬臺」として「國」の文字を外している=国名ではナイ!、と看破。

∵「裴世清」以前の郡使(魏使)は、倭國内陸行に難渋している。

・「末盧國」〜「伊都國」=「濵山海居草木茂盛行不見前人」=前を歩く人を見失う様な藪(ブッシュ)を掻き分けて進む。

・「伊都國」〜「投馬國」=伊都國の南千五百里の行程を「水行二十日」=陸行困難の意。

∴『隋書』の裴世清が現地踏査したのが初めてである。

※参問倭地…周旋可五千餘里 =郡使(魏使)が実地踏査した「倭國」領域の総延長=「拘邪韓國」千五百里(逆算)+対馬海峡横断三千餘里+「末盧國」〜「伊都國」五百里=五千餘里 。


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