新しい掲示板に替わりました。 旧掲示板は、「出雲と大和」、「出雲と大和(続」のスレッドで1万通のアクセス数をいただきまし た。 弥生時代の後半から始めて、古墳出現期を見渡し、今は古墳時代前期から中期に向かっています。 最後は欽明に至るまで考察したいと思います。 一応は出雲の歴史展開を弥生時代ー古墳時代について概説し終わりました。 今後は、「出雲と大和(新)のスレッドとして倭の五王に挑みます。 全体の流れ(マクロ)を見通しすると同時に、確実視される点情報(ミクロ)を落穂情報として記述し ながら綴ります。 知的冒険です。よろしくお付き合いください。 本日は松山英樹(松山市出身)がゴルフの聖地でマスターズ初制覇した記念の日です。 |
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新掲示板 4-6世紀へ、4世紀を振り返り5世紀に向かう ☆☆ 前のスレッド「出雲と大和(続)」は4世紀の佐紀盾列勢力と日本海沿岸勢力が同調して 沖ノ島祭祀をして朝鮮半島に向かうことを述べました。その総括が 佐紀盾列政権についての私の考察の纏めです。 蓋(キヌガサ)形埴輪は佐紀盾列政権のアイデンティティーである。 鰭付き円筒埴輪は和爾氏のシンボルとされる。その分布が何を意味するか。 佐紀盾列の特徴には、古墳墳墳頂部に設けられた方形区画もある。 京都府埋蔵文化財情報 第102号に「キヌガサ」形埴輪雑感(上)―その形と役割に関する覚書ー 伊賀高弘 に深い研究内容が述べら れている。気になる事項を書きます。 京都府南部(山代)木津の古墳(瓦谷一号)などには形象埴輪とりわけ器財埴輪でキヌガサ型埴輪の比率が高い。 古墳時代前半期は奈良県外山茶臼山古墳,メスリ山古墳の二重口縁壺形 土製品(埴輪)に囲繞された低い土壇を経て、奈良県佐紀陵山古墳の段階で周囲を石積基壇で取り囲み、高い壇上には器財埴輪や家形埴輪などを多重に巡らせられた最も壮厳化された姿を示す。 やがてこうした祭祀に係わる舞台装置は三重県石山古墳、岡山県金蔵山古墳に示されるように5世紀代の古墳に確実に継承されていくが、5世紀に入ると早くも形骸化の方向が示す。蓋(キヌガサ)の模倣の元は,笠・傘とされた、貴人を示すシンボルとされている。 蓋形の表現は三重県松阪の宝塚一号墳の船形埴輪、奈良県東殿塚古墳の線刻絵画によって 使用実態がわかる。 以上は、①大垣市の中井正幸氏の考察と②堺女子短期大学名誉学長・名誉教授。塚口義信氏の考察と深く関連する。 ① 佐紀盾列群勢力のシンボル(アイデンティティー)を特定のクニや勢力に配布し配置するのは なぜであろう。同盟かもしれない。そのシンボルが器財埴輪(蓋形と盾形)及び和爾氏のシンボルである鰭付き円筒埴輪です。 また後円部の頂に配置する石積方形壇も佐紀盾列の勢力のシンボルです。 器財埴輪(蓋形、盾形埴輪)の工房は佐紀地方の山陵町にあります。佐紀陵山(日葉酢媛陵)と五社神〈神功皇后陵〉の古墳から埴輪が広がっているようです。佐紀・五社神型墳形企画も同時に広がります。 先ず、東海道と東山道に4世紀後半から5世紀初頭にかけて広がっている。 東山道は山間の道です 奈良市北部山陵町⇒三重県石山古墳⇒大垣市昼飯大塚古墳⇒木曽川沿いの犬山市青山古墳⇒高崎市上毛野国の浅間山古墳は、佐紀陵山古墳の3/4縮尺です。 和爾氏の鰭付き円筒埴輪も入ります。 東海道は、海の道です。佐紀盾列西群の地である山陵町で作られた蓋形埴輪が⇒伊勢宝塚1号 布留2-3式の土器が出るころです。器財埴輪の出発地は五社神(神宮皇后陵)付近です。 ▽東山道(内陸)では、伊賀の石山古墳、大垣市昼飯塚、群馬県高崎市の浅間山古墳です。 高崎市の浅間山古墳は、佐紀盾列と同じ型で器財も同じです。 高崎市文化財の若狭徹氏(現在は明治大准教授)もそれを認めています。 ▽東海道(海路)では、伊勢湾沿岸の松阪宝塚一号、三河の正法寺古墳です。 ▽この4世紀後半は、博多湾貿易が解体各地の中継交易拠点が一斉に衰退する。 纏向遺跡―中河内・中田遺跡群―吉備・足守川―出雲・古志本郷― 壱岐・原の辻の遺跡群である。 ▽それに代わって日本海沿岸の勢力が栄える。 佐紀盾列西群勢力が日本海の丹後を出発し、途中で東伯耆の東郷池という潟湖周辺の長瀬高浜の 港を寄港地として出雲を経て、沖ノ島で祭祀をして航海安全を祈り、半島へ向かう。 は博多湾貿易が終わった4世紀後半から。丹後⇒東郷池の長瀬高浜(現在の地名は湯梨浜)⇒東出雲⇒宗像・沖ノ島沖 (沖ノ島祭祀の始まりは、4世紀後半) ⇒朝鮮半島ルート その証拠が以下である。 ETV歴史番組で 奈良市北部の佐紀陵山前方後円墳 4世紀後半~丹後の網野銚子山古墳 4世紀後半 佐紀盾列政権の古墳の代表である佐紀陵山の前方後円墳の墳丘企画と同じなのが、 日本海沿岸の丹後の網野銚子塚古墳の勢力の古墳であり<岸本直文氏の研究>。 であり、 日本 海沿岸の 長瀬高浜の馬山4号墳はである<君嶋俊行氏の講演:日本海航路から見た山陰の古墳>である。 佐紀盾列西群の佐紀陵山古墳は日葉酢媛の墓とされること、 馬山4号は、長瀬高浜の潟湖である東郷池の北接の丘陵に在り、重要な寄港地で、物流の拠点として栄える首長の墓であことも注目すべき考えられる。 出雲の宍道湖南畔の上野一号墳にも鰭付き円筒埴輪が副葬されている意味は何であろうか。 ★塚口義信氏の4―5世紀の丹波とヤマト政権の研究★に拠ると、 佐紀政権の成立には朝鮮半島の問題と丹後の政治集団が深く関わっているとしている。 5世紀になると河内新政権が日本海沿岸の若狭・丹波・但島の海人集団が協力し、新政権によって掌握されるとしている。 若狭・丹波に和爾氏の勢力が伸びていた。丹波の海部直氏は和爾氏と深い関りを持ち、この一族を媒介として河内政権と結びつくと推測している。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ☆☆5世紀時代になると、大阪府の百舌鳥古墳群、吉備の造山古墳、および作山古墳や日向の西都原の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳などの巨大な古墳が続々築造されるが、これは瀬戸内海ルートが深い関りを持つようになる。 要するに、4世紀後半は佐紀盾列政権が日本海沿岸ルート使うのに対して、5世紀になると 河内政権が瀬戸内ルートを使うようになり日向にも接近するということである。それぞれの政権の支持基盤が交代することを物語るのである。果たして佐紀政権から河内政権への交代に政変があったかどうか、391年-404年に高句麗の広開土王即位時代に朝鮮へ向かう政権は佐紀政権か河内政権か。神功皇后と応神天皇の実在性と業績はないであろうか、日葉酢媛は丹後の久美浜潟湖に流入する川上谷川流域に母を持つ勢力の娘とされている。女首長として実在性が認められている存在である。 |
国際シンポ 堺市 橘 泉(堺市博物館)「百舌鳥古墳群の概要」 講演1 松木武彦(国立歴史民俗博物館教授)「古墳時代中期の歴史像」 講演2 朴 天秀(慶北大学校教授)「4・5世紀における加耶・新羅と倭の交流」 講演3 權 五榮(ソウル大学校教授)「4・5世紀における百済と倭の交流」 講演4 田中俊明(滋賀県立大学名誉教授)「倭の五王の遣使と東アジア世界」 講演5 柳本照男(元東洋大学校准教授)「4・5世紀の東アジアと倭政権」 講演者による討論 司会:柳本照男・橘 泉 柳本照男氏の講演『4・5世紀の東アジアと倭政権』の講演に感銘を受けました。その一部をそのまま 引用させていただきます。以下 古墳時代における半島との交渉をみると、まず3世紀後半から金海・釜山を中心とした地域と博多湾を 中心とした地域の交易が確認できる。互いに土器の存在が大きく、倭国では西新町遺跡、半島では鳳凰台遺跡、 東莱貝塚等である。特に西新町遺跡では加耶地域のみではなく、百済地域の土器も多く含まれており、百済地域と も交易が存在していることを窺い知ることができる(福岡県教委2009)。この時期には倭系武装具類の出土は確認 されていない。このような状況の中で、変化が現れるのは4世紀中頃を前後する時期からである。 (1)4世紀中頃~5世紀初頭 第1段階は4世紀第2四半期に始まり、5世紀の初頭までである。その始まりを教えてくれるのは大阪府紫金山 古墳である。紫金山古墳の副葬遺物の中には周知のように竪矧板革綴短甲や鉄製銛など半島系遺物を所有して いる。この時期の関係は金官加耶に核があり、大成洞古墳群が中心を占めている。近年の調査では倭系遺物だけ でなく、中国東北部地域の文物を所有するなど広域な交易ル-トを所有している(沈載龍2016)。そして筒形銅器 などの所有形態などから良洞里古墳群や福泉洞古墳群とのネットワ-クも形成されている。この時期、4世紀中頃 の倭系短甲は方形板革綴短甲であるが、大成洞1号墳と福泉洞64号墳でそれぞれ1領が保有されている。その上、 これらの古墳群では鏃形石製品などの石製品も含まれるなど武装以外にも及んでいることである(。これをどのように理解するかということは関係を探る上では重要である。その一助になるのが「七支刀」や 「広開土王碑文」、「沖ノ島祭祀」等である。この時期の半島情勢は高句麗の南進政策が大きく影響している。 高句麗による楽浪・帯方郡の滅亡(313年、314年)、これにより南進政策は加速したと思われる。倭は楽浪・帯方 郡消滅により中国王朝への航路が遮断されたことにより加耶地域に方向転換したと一時は考えた(柳本2005b)。 だが本質はそうではない。加耶とはそれ以前より鉄資源の確保などで交易は継続している。そのために加耶を援助 し慶州地域まで侵入したのであるが、それは新羅の勢力拡大阻止と金官加耶振興のためである。決して倭の単独 行動ではない。同様に遮断された中国東北部・中原に向かう西海岸ル-トを回復させる目的で百済を援助する。 利益なきところに援助はしない。それは今も昔も同様である。 ◎4・5世紀の東アジアと倭政権 -朝鮮半島の倭系遺物・倭系古墳からの思考- 柳 本 照 男 (元韓国東洋大学校准教授) 金官加耶では400年の死守戦での敗北。百済は390年代から407年に至る攻防戦での惨敗である。その関係が 「広開土王碑」に記された4世紀末から5世紀初頭の記事である。特に倭は永楽14年(404)、百済を援助して帯方 界まで進出するが敗戦により撤退する。これらの証左資料が4世紀中葉以降から5世紀初頭かけて大成洞古墳を 中心に出土する倭系遺物群の存在であり、百済では臨津江の舟月里遺跡(六渓土城)から出土する三角板革綴 短甲の倭系短甲片である この倭製短甲と高句麗遺物が出土する歴史的背景については、これらの遺物の所属時期が4世紀後半から5世 紀の前半に限定されることから「広開土王碑文」にみられる4世紀末~5世紀初頭の高句麗との攻防戦に伴う遺物 群と解釈することができる。漢陽大調査2号住居跡出土の高句麗土器は百済敗戦に伴う高句麗軍の一時駐屯と 理解できる。よって、4世紀後半から5世紀前半代における高句麗との攻防戦は臨津江流域が主戦場と みられ、臨津江を死守する前線基地の一つが舟月里遺跡であり、六渓土城であると想定することが合理的で、 理に適う解釈である。倭製短甲の出土は百済の援軍として参画している証左である。舟月里遺跡は、このように臨 津江沿いの地政的条件を絡ませて考えれば、通有の集落ではなく土城を伴う軍事的色彩の強い遺跡であると判断 される(柳本照男2012)。 したがって、この時期は加耶地域と百済北方の二極が存在する。倭から金官加耶へ、この地で金官加耶軍と 共に北上する一軍(新羅領域内へ)と百済をめざす軍に二分される。金官加耶が中核を占め、役割が大きい。金官 加耶はそれ以前の狗耶国以来、中国など対外貿易の中継地としての港湾都市であり、倭にとっては重要な国で ある。金官加耶は400年の高句麗・新羅連合軍との攻防戦に敗れ衰退していくが、滅亡はしていないようだ。それを 裏付けたのが2014年に調査された大成洞93号墳の調査であり、5世紀前半代の王墓級墳墓の存在が確認された ことである。副葬遺物の中には野中古墳出土の陶質土器に近似するものなどがあり、興味を引く成果である(大成 洞博物館2016)。しかし、5世紀の前半以降、金官加耶には小さな核は存在するものの大きな求心力は失われて いく ◎ 韓半島南西部の海岸には、野墓古墳、べノリル古墳、そして長鼓峰古墳など倭系の古墳様式のものが散在している。これについて柳本照男氏は解説を述べておられる。注目すべきでしょう。 要するに畿内の政権が、後ろ盾となって九州の勢力を動かしていると見ておられる。 例えば、先般 ETV歴史番組でヤマトの古墳の相似形のものが地方に存在することです。 〇ヤマトの古墳群と 相似形の 地方の古墳 ( 奈良市北部の佐紀陵山前方後円墳 4世紀後半~丹後の網野銚子山古墳 4世紀後半) に対して 大阪府河内古市古墳群の 仲津山古墳 4世紀末~宮崎県西都原の女狭穂山古墳 5世紀前半 これも傍証であろうか 西都原の古墳と応神の皇后の仲津姫の墓と相似していることです。 また、西都原の埴輪と近畿の埴輪には深い関係があり畿内の工人が派遣されたと見做されています。近つ飛鳥博物館―日向・大隅の古墳(犬木 努】平成24年刊行で述べられている。 以下は、柳本照男氏の論考です。 ペノルリ古墳出土の三角板鋲留衝角付 畿内政権 中枢の古市古墳群内に2例と九州に1例存在するのみである(橋本達也・鈴木一有2014)。埋葬施設から被葬者は 北部九州の倭人であるが、その背後には、この稀有な三角板鋲留衝角付冑の存在から倭政権が関与していること が読み取れる。田中晋作も古市古墳群内から同様の出土遺物が存在することからこれらの地域との関連性を指摘 している(田中晋作2020)。筆者は古墳の時期も近接することから、これらの古墳を個-に解釈するのではなく、 海賊集団から船団を守り、難所の海路を安全に守り導くという任務が倭政権から北部九州の一地域首長に託され た、その首長層と傘下者の古墳と推定する(柳本照男2015)。その任務は倭の五王遣使に伴うものである。最近、 林永珍氏も同様の思考である事を知った(林永珍2017)。 5世紀前半代に存在するこれらの古墳は、百済への援軍が主要任務ではなく、中国(宋)への遣使に伴うも ので、413年以降の倭の五王の朝貢(表1、田中史生2013)に伴う航路の安全確保のために派遣された北部九州の 倭軍と判断される。この延長線上に竹幕洞祭祀遺跡も存在する。倭の五王朝貢団が渡海に際し最後に安全祈願を 実施した祭祀遺跡である。このように朝貢に伴う一連の脈絡によって出現したものと判断される |
白石南花さんへのQ 投稿者:トミー 投稿日:2021年 4月17日(土)18時10分1秒 編集済 いつも解説いただきありがたい存在です。 新しい討論室も倭の五王に立ち向かいますが、じっくり腰を構えて取り組みます。 新しい掲示板は、談話室が基本のようですので、こちらで語る比重を高めます。 2-3質問しますので、ヒントをいただけたら談議が弾みます。 允恭を攻略の足掛かりとして新羅との関係を見ています。 ◎和歌山県紀の川筋の橋本市に所在する隅田八幡神社人物画象鏡銘の癸未年は443年説がありこれなら、允恭の活躍する時代で 注目しています。最近は503年説に傾いているかと思います。白石南花さんは 弘計とされ、武寧王や継体とは関係がないとされるのですね。この鏡の作成者に穢人の名がはいります。 濊貊(ワイヒャク)人と関係はありませんか。 ◎倭王武が南宋の順帝の昇明2年(478年)に上表文を提出します。 父祖の代に,衆夷66国、毛人55国,海北95国を征討したという記事があります。 毛人は東日本の蝦夷ですか。衆夷 は西日本ですか、熊襲・隼人の元祖を含みますか。 海北は、先般の堺市国際シンポで柳本照男氏が述べておられたソウルの北のイムジン川の舟 月里説に同意されますか。 |
トミーさん 投稿者:白石南花 投稿日:2021年 4月17日(土)22時22分11秒 >隅田八幡神社人物画象鏡銘の癸未年は443年説がありこれなら、允恭の活躍する時代で注目しています。最近は503年説に傾いているかと思います。< この鏡のもとになったのではないかとされている同型鏡の出土地は 5世紀末 郡川車塚古墳 5世紀後半 長持山古墳 5世紀 トヅカ古墳 5世紀後半 西塚古墳 5世紀末 亀塚古墳 5世紀末から6世紀初 番塚古墳 5世紀後半 朱千駄古墳 となっており、この鏡も五世紀後半から六世紀初めの国産鏡であると考えられます。 歸中費直(紀のアタイ)が絡んだので、紀ノ川流域にあったのでしょう。 >濊貊(ワイヒャク)人と関係はありませんか。< 関係あると思いますが、百済よりは新羅系渡来人に関連するのかもしれません。 この鏡にはのちの紀氏、曰佐氏などが関連していると思いますが、このあたりは米田さんのご専門でしょう。 >西日本ですか、熊襲・隼人の元祖を含みますか。< 倭王武の上表文は、四六駢儷体などと呼ばれる形式らしいです。 「封國偏遠 作藩于外 自昔祖禰 躬擐甲冑 跋?山川 不遑寧處 東征毛人 五十五國 西服眾夷 六十六國 渡平海北 九十五國 王道融泰 廓土遐畿 累葉朝宗 不愆于? 」 基調は四言の連続で、対句を多用し極めて修飾的な文です。 したがって「西服眾夷 六十六國」をあんまりまともにとらえることはできないでしょう。 ただ熊襲ないし隼人を西夷とみなしたとして不思議ありません。 熊襲ないし隼人を南の人とみなす方もいますが、古墳時代の九州は、東から古墳文化が浸透し、西岸は遅くまで独自性を持っていたようです。 >海北は、先般の堺市国際シンポで柳本照男氏が述べておられたソウルの北のイムジン川の舟月里説に同意されますか。< 海北もまたかなり誇張されていると思いますが、朝鮮半島の争乱に巻き込まれるようにして、倭王権が半島進出したことは間違いないと思います。 半島の小国が頼りにする後ろ盾として、新羅や百済や加耶などと同様の存在であったと思います。 六渓土城自体は三世紀から始まると考えていますが、地勢的にこの地点は漢城百済と高句麗にとって、戦略上の重要拠点でしょうね。 百済系の土器より早く高句麗系の土器が入っていたのではないでしょうかね。 百済が人的に頼った倭の兵士がいてもおかしくはないと思いますが、私は詳しくはないです。 ここは朝鮮戦争の時の北鮮の渡河点でもあったし、臨津江に北から支流の流れ込む、南北交通の要衝でもあります。 私はこの辺りが、韓伝にみる臣濆沽國の中枢部であったとみています。 |
白石南花さん 投稿者:トミー 白石南花さんの倭の五王の投稿 ありがたい支援です。 >トミーさんに触発されて、ここしばらく日本書紀における倭の五王の記録を調べていました。 雄略紀の再編纂前には、身狭村主青と檜隈民使博德の呉への二回の遣使が、宋書の460年と477年の朝貢と完全に一致していたことも分かりました。 そもそも雄略紀の再編纂は無茶苦茶な要求だったので、年次が大きくずれてしまったのですね。 それよりも驚いたのは、古事記崩年干支で允恭の崩御年、つまり安康の即位年にも朝貢していると思われることです。 宋書に載らない朝貢もあったのです。 倭の五王の記録が不分明なのは、主に日本側の記録がないためでしょう。 日本書紀の外交記事はほとんど、百済滅亡後の百済亡命貴族の書いたと思われる、百済三書によるものですが、この人たちが五世紀の倭国の南朝への朝貢記録を残すわけがないので、記録が残らないのは当然で、身狭村主青と檜隈民使博德などの古い時代の識字渡来人が、たまたま残した記録に頼るよりなかったのでしょう。 けれど宋書もまた完全な記録ではなかったことが大きな発見でした。 ⇒私は、チャレンジの気持ちはありますが実力不足です。 文献の読解力が弱すぎます。 貴台が、倭の五王のスレッドを起ち上げてもらう方がベターかもしれません。 一応は私のスレッドにそのままコピーさせていただきます。 いずれにせよ、ありがたいガイドです。 参考にさせていただきます。 半年~一年ぐらいかけて検討するに値する宿題と考えて牛歩で着実に取り組みます |
ピクポポデミ 後漢書東夷伝の拘奴国の地理的記述と、三国志魏書東夷伝の狗奴國の地理的記述には大きな差がみられる。 三国志:其南有狗奴國 後漢書:自女王國東度海千餘里至拘奴國 また三国志では三国志:女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種 となっていて、三国志の倭種の国と拘奴國が入れ替わっているのである。 両者ではそもそも全体的な地理的配置が変わっていることが分かる。 これは到底誤写の類ではない。 なぜこんなことが起こるのだろうか。 三国志魏書東夷伝と後漢書東夷伝では、基本的に情報が似ていて、後の時代成立の後者は前者の情報をもとにしているとされる。 しかし一部の情報は異なっている。 後漢の時代に関する記事では、三国志魏書にみえないものがあるが、これは三国志魏書が魏時代の歴史書の体裁をとったため書かれていないものであると思われる。 漢委奴国王の記事などがそれである。 後漢書にみえる後漢代固有の情報は、先行する東観漢記などによるものであろう。 三国志魏書東夷伝の冒頭の記述から、おそらく公的な先行史書である東観漢記には、東夷伝が無かったと思われる。 後漢書東夷伝にみえる後漢代固有の情報は、おそらく東観漢記帝紀または、他の烈伝を参照したものと思われる。 しかし狗奴國の例のように、一部の情報は三国志魏書東夷伝の情報を、修正したとしか思えないものがある。 そのような修正はどのような情報に基づいたものなのだろうか。 今両者の間に著しい違いのある例として、韓伝を取り上げよう。 三国志では雑居し言語も似ているとする辰韓と弁辰が、後漢書では南北に分かれ、言語にも違いがあったとしている。 これは後漢書のかかれた五世紀の新羅と伽耶に関する情報による補正とおもわれる。 五世紀の劉宋は、朝鮮半島とは海を隔てた存在であり、このような情報をもたらしたのが誰であるかが問題となる。 このヒントとなるのが、辰王に関する記述である。 三国志では、辰韓の王は自ら立てることができず、馬韓に辰王がいることになっていた。 それは辰韓の人々が移住してきた際の、歴史的背景に基づくもので、辰王はあくまで辰韓の王である。 ところが後漢書では、辰王は三韓を支配する王として描かれているのである。 後漢書では、数ある韓の国名の内、百済の前身とされる伯済のみが取り上げられている。 この意図は明白に、百済が馬韓の後継であることを示唆したものである。 この時代百済は高句麗と激しく争っていた。 同じ夫餘系とする高句麗に対し、本来の祖先伝承を主張しても政治的に意味は無い。 百済を馬韓の後継者として、その馬韓にいた辰王が、かって三韓の王であったとすることは、百済の半島南部における支配の正当性の主張となる。 したがってこの情報は、百済系の人物によって、政治的目的でもたらされたものであり、後漢書には三世紀辰王に関する、独立な正しい情報は含まれていない。 では倭人条の狗奴国の記載を修正したのも百済人の関与なのだろうか。 三国志魏書東夷伝によれば、卑弥呼は魏に上表文を出している。 すでに三世紀から文書外交が行われている状況が分かる。 しかし三世紀の国内の遺跡からは、文字と言うより文様もしくは記号として用いられた可能性のある、文章化していない文字記録しか発見されない。 おそらく外交文書は日本にいた漢人などが担当し、国内的にはほとんど文字使用は無かったのであろう。 始めて国内にはっきりと文字使用の痕跡が現れるのは、五世紀の江田船山の大刀と稲荷山の鉄剣である。 稲荷山の鉄剣の文字使用には、のちの推古朝遺文とよく似た特徴がある。 推古朝遺文の文字使いは、同時に日本書紀に引かれる、百済系文書の文字使いに似ている。 すなわち五世紀には、主に百済系の人々によって、日本の文字記録はなされたのであろう。 日本書紀には、王仁が百済からやってきて、漢字を伝えたとあり、伝承と考古記録には大きな矛盾が無い。 後の史部にあたる渡来人が、最初期の文字記録を残し、おそらく倭王武の上表文なども作成したのであろう。 推古朝遺文には、いわゆる古韓音とよばれる、同時代の中国とは異なる特徴的な音価がみられ、これはおそらく朝鮮半島北部の、かっての楽浪郡などに伝わった音ではないかと考える。 おそらくこの漢字音が、百済系の人々などの一部に伝わっていたのであろう。 ともあれ、五世紀の日本の特に文書外交を考える際に、半島系の識字渡来人、特に日本書紀を参照するならば百済系渡来人を想定しないわけにはいかない。 倭王武の上表文には、多くの漢籍を下敷きとした表現があり、当時の日本の宮廷周辺にいた識字渡来人が、相当の漢籍を参照できたことが分かる。 三国志もその中に含まれていておかしくない。 日本にいた識字渡来人はその内容に大いに関心をもったであろう。 さて後漢書東夷伝倭条の修正情報が、五世紀初めに識字渡来人によって採取され、その百済系人脈を通して中国に伝えられたとしてみよう。 はたして彼らはどのような形で狗奴国情報を採取したのだろうか。 五世紀初頭の倭国に、三世紀中ごろの倭国の情報はどの程度伝わっていたであろうか。 国内に文字記録が無かったことは、崇神紀崇神記などに濃厚に口承伝承の痕跡があることでも分かる。 はたして数世代前の情報がどの程度伝わっていただろうか。 また明史日本伝等を見ると、国内的に伝わる歴史と、中国に伝わった情報にずれがあることも考えられる。 後漢書東夷伝に伝わる拘奴國の記述が大きく変更されていることをみると、五世紀に行われた考証に相当の困難のあったことがうかがえる。 五世紀後葉の倭王武の上表文によれば、四方への武力制圧が語られており、記紀の征服譚は既に原型が存在したのであろう。 特にヤマトタケルの物語は、ワカタケルの名前との共通点もあり、五世紀後葉には概ね成立していたであろう。 ヤマトタケルの伝説の原型は五世紀初頭にさかのぼる可能性もある。 ヤマトタケルの伝説の内、識字渡来人によって狗奴国に比定されそうな伝説は、熊襲、出雲、東海、関東、東北などがあげられるが、実際に東に変更されているところをみると、東征が採用されのであろう。 東征の内もっとも印象的なのが、草薙剣の登場する、焼津附近の征服伝説である。 この伝説はおそらく本来尾張の英雄が、東海を制圧した話であったのだろう。 五世紀初頭には、実際にそのような物語であったかもしれない。 実は焼津の近くに、久能山という興味深い地名がある。 本来久能寺という寺があり、それが地名のもとと言う。 久能寺は秦久能という人名に起源があり、推古朝に開かれたという伝承があるが、駿河国志には聖武天皇の時代とされ定かでない。 秦久能は久能忠仁と言う名でも伝わっている。 久能寺には久能忠仁の墓もあると言う。 この人物は秦氏であり、そもそも久能は苗字ないしはその先駆的なものなのではないか。 とすればそもそも久能と言う地名が先にあったことになる。 一方国造本紀には、久怒国造がいたとされ、倭名抄の山名郡久努郷、現在の静岡県袋井市辺りと想定される。 また古事記には、堅石王の子、久奴王の名前がみえ、国造本紀には珠流河の国(静岡県)の国造として片堅石命の名がみえる。 古くはおそらく静岡県一帯を久奴と言った可能性がある。 越と言うのは古く日本海側を敦賀方面から北へ延びる細長い地帯を指したらしいが、国造本紀の構成からそのもっとも畿内に近いところに、高志国造が想定される。 同様に静岡県一帯を久奴と言い、そのもっとも畿内に近いところに久怒国造がいたのではないか。 識字渡来人はこの久奴を、五世紀の発音で狗奴と同一視したのではないか。 それではなぜ、自女王國東度海千餘里至拘奴國なのか。 実は五世紀には、後の東海道の通る北伊勢の情勢が、政治的に不安定であった可能性があるのである。 雄略紀には朝日郎の征伐記事が出てくる。 またヤマトタケルも北伊勢で亡くなったことになっている。 この時代、静岡県方面に向かうメーンルートは、伊勢神宮のあたりから伊勢湾を渡るルートであったらしいのだ。 雄略紀に伊勢斎宮稚足姫皇女の記事があることに、この時代の南伊勢の重要性をうかがうことができる。 伝説によれば伊勢外宮の豊受大神宮遷座もまた雄略朝とされている。 伊勢湾神島の画文帯神獣鏡は五世紀にさかのぼると言われ、この時期畿内の古墳の流行は、尾張を飛び越して三河にあらわれる。 五世紀初頭の識字渡来人にとって、彼らが拘奴國とみなした静岡県方面に向かうには、伊勢湾を渡る必要があったのだ。 彼らにはそもそも、三国志に描かれた倭国は、実際に彼らがいた倭国の状況とは、異なると言う実感があっただろう。 三国志では、女王國東渡海千餘里の倭種の国は、拘奴國とは別の存在とみなされている。 しかし彼らにはそれこそが拘奴國そのものだったのだと思われたのだろう。 オヤジッチさん > 日本書紀に書かれていないものは分からないわ ↑日本書紀(古事記も)に描かれているものは、8世紀、大和朝廷の支配権正当化のために書かれた作為的歴史、漢籍からの引用も多い。 風土記は、大和朝廷に提出するために書かれたもの、大和朝廷に都合の悪い記事は載せていない(載せれなかった)、筑後國風土記の、「磐井の記事」などはその典型。 |
橘 さんの見方をここへ貼らせていただきます。(トミーも遣唐使が都の都で購入した芸文累聚(百科事典)や文選などに注目しています) 歴史万華鏡 編集委員 岡本健一 1994年8月12日 毎日新聞より 記紀の出典論、後生に託して応召 藝文類聚の発見<青春の遺書> 昭和18(1943)年秋、構内のイチョウの葉が色づき始めたころだった。小島憲之さん(当時、京大国語国文学教室教務嘱託)は『日本書紀』の欽明(きんめい)天皇の巻を読んでいて、ハッと気がついた。 「この言葉の出典は、中国古典からの引用というより、文芸百科事典『藝文類聚』(げいもんるいじゅう)からの、一種の孫引きではないか」 『日本書紀』や『古事記』編集の手の内が見えた瞬間、小島さんは小躍りした。研究者にとっては無尽蔵の鉱脈を発見したようなものだ。「これで一生、論文が書ける」とひそかに安心もした。 『藝文類聚』は唐の欧陽詢(おうようじゅん)が7世紀前半に編集した〈類書〉つまり分野別百科事典。森羅万象・人事百般を天地・四季から人間・政治・産業・生活・動植物まで45部に大別したうえ、千項目余りに分けて解明する。古典や詩歌をふんだんに引用してあるので、金言名句の文例・引用辞典としても役立つ。 たとえば〈交友〉。友情にまつわる故事や名言がイモづる式に出てくる。したがって膨大な中国の古典をひっくり返さなくても、また万巻の書物をそらんじなくても、『藝文類聚』の関係項目を開き、しかるべき名句を拾いだしつづりあわせたら、典拠のある格調高い文章が書けるわけだ。 ー『古事記』の太安万侶も『日本書紀』の編集スタッフも、どうやら『藝文類聚』をネタ本に文章を書いたらしい。 これが小島さんの直感だった。 しかし、戦局は急迫していた。翌19年に入ると、国語国文学教室も、「入営・応召相つぎ・・・・学内いよいよ寂寥(せきりょう)の感」を加えていた(機関誌「国語・国文」の消息欄)。 4月、小島さんに召集令状が届く。14年、日中戦争で満州(中国東北部)へ出征して以来、2度目の応召だ。 「去る6月、帰還後の満2箇年孜々(しし)として研究室嘱託として尽瘁(じんすい)せられた小島憲之君応召、既に某方面で軍務に属して居られる。・・・・」 前年末にまとめた論文「記紀の翻案史をたどる」が「国語・国文」4月号に載る予定だった。小島さんは令状を受け取ると、ゲラ刷りの余白に「追記」としてこう書き加えた。 「書紀の成文の素材は漢書(かんじょ)、後漢書、三国志其の他の史書の外は、類書特に欧陽詢の『藝文類聚』に負うてゐる処が多く、在来考へられてゐた程に、四書五経など種々の典籍は直接には参照してゐない。これに就いては編纂(へんさん)問題と共に別の機会をまたう」 当時の心境をふりかえって小島さんは語る。「もし、自分が日本に生還できなくともだれか百年の後にはこれを読んで、研究を発展してくれる人が現れよう、という気持でした」。後生に託した<青春の遺書>だったのだ。 |
オヤジッチ の投稿 2021/04/23南日本新聞より 鹿児島県立埋蔵文化財センターは23日、南さつま市金峰の中津野遺跡で2008年度に出土した木材が、約2500年前(弥生時代前期後半)の「準構造船」の部材と判明したと発表した。国内の出土例を100年ほどさかのぼり、最古級という。専門家は「高度な造船技術で、外洋航海が行われていたことを示す証拠」と評価する。27日から上野原縄文の森(霧島市)で公開予定。 準構造船は丸木舟から発展し、積載量を増すため側板などを取り付けたもの。 センターの寺原徹調査課長によると、木材はカヤ製の板で、長さ2.7メートル、幅30センチ、厚さ5センチ。18年から本格的に調査し、形状やほぞ穴から準構造船の舷側板と判断した。その後の放射性炭素年代測定で、紀元前5~4世紀の木材と分かった。 板は水の抵抗を防ぐためか、片面が丁寧に削られている。また別の舷側板と連結した跡があり、船の全長は6メートル程度と推定される。 中津野遺跡は東シナ海につながる川に面し、弥生時代の交易を示す高橋貝塚も近い。 高橋貝塚は南さつま市(金峰町高橋)にある標高約11mの砂丘内部の低い台地にあり,縄文時代晩期~弥生時代中期の貝塚。1962・63年発掘調査され,市の指定史跡。 籾痕(もみこん)のある土器や石包丁,柱状石斧(ちゅうじょうせきふ)など稲作農耕の存在を示すものや,南海産の貝輪未製品が出土するなど交易のうえでも貴重な遺跡である。 狗奴国(南部九州)は邪馬壹國連合(北部九州)と拮抗する勢力があったであろうことの状況証拠、北部九州の首長層が腕につけていた貝輪の供給元でしょう。ところが、北部九州で青銅製品(銅戈・銅矛)が会話にとってかわったため買い製品が売れなくなり、『倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和』の原因となったのでしょう。そこで、呉が軍事顧問団を狗奴国へ呉が邪馬壹國連合へ(-_-;) |