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邪馬台国九州説の論拠(2) ( No.4 )
日時: 2021年04月06日 14:44
名前: 当世奇妙 [ 返信 ]
先ずは以下の紹介をしたい。
『考古学から見た 邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』関川尚功 梓書院
弥生時代・庄内式時代の大和の遺跡には九州の遺物がほとんどないことから
論を初めている。
今後、時間が出来たら関川論を紹介したい。

以前布留ゼロは3世紀で4世紀は無いとの考えから関川論を全く読んでいなかったが
最近のJcal,Intcal20で4世紀の可能性もあると考えたので、取り上げる。


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Re: 邪馬台国九州説の論拠(2) ( No.132 )
日時: 2021年04月27日 15:09
名前: 当世奇妙 [ 返信 ]
関川氏の論は邪馬台国九州説と言うより
畿内邪馬台国不可能説と言うものである。

具体的証拠による論と言うよりも間接的推論
に近いと思われる。

しかしながら、それなりに説得力はあると感ずる。

1例として首都と対外交渉・通行の重要港湾とは
近い場所にあるのが通例である。
後の時代の大和の宮都と難波などのように。

近畿大和と伊都国は遠すぎる。
邪馬台国の位置は伊都国と大きく離れるとは考えられない、とする。


Re: 邪馬台国九州説の論拠(2) ( No.141 )
日時: 2021年04月28日 23:38
名前: 石見介 [ 返信 ]
[ 削除 ]
 御紹介の関川氏の、「首都と対外交渉の重要な港湾」との位置関係については、私は日本史の通史的な観点からは、古代の一時期の「特殊な条件」下でのみ、成立する与件だと思います。

 以前の日本の中央政権の成立の条件としての、「外交の一元化」同様、日本史上では、必ずしも「外交」「対外交流」は、通時的な「重要課題」ではない、という「実態」があります。
 
 この辺りは、荒野泰典、石井正敏、村井章介編『日本の対外関係』シリーズ(吉川弘文館)を読めば、理解できると思われます。

 断捨離の一環で、全7冊、会に寄付の予定でしたが、コロナ騒動で、頓挫しました。
 外交の一元化や対外交流の重視は、どうも実証史学と言うよりは、観念的な唯物史観や発展段階史観による先入観、先験的な「思い込み」によるものでしかない、と私は考えています。    
 日本史に於いては、むしろ列島内各地域間の「対内関係」が何時の時代も最重要であり、倭人世界、倭種世界の展開、通時的変化を、考えるべきでしょう。
 そう考えれば、半島南部の「倭種」の存在が、古代における「外交」「対外交流」の重要な一環であり、一見外交や対外交流に見え、且つその側面を持っていたにしても、九州島の存在感を強調していたことが、理解できます。

 


Re: 邪馬台国九州説の論拠(2) ( No.143 )
日時: 2021年04月29日 08:53
名前: 当世奇妙 [ 返信 ]
港と首都の話は関川さんの本の最後にあったものです。
まあ駄目押し的なものでしょう。
邪馬台国近畿不可能説の論拠を多く書いています。

時間を見て順次紹介します。


Re: 邪馬台国九州説の論拠(2) ( No.144 )
日時: 2021年04月29日 09:20
名前: 当世奇妙 [ 返信 ]
日本の中央政権の成立の条件としての、「外交の一元化」同様、日本史上では、必ずしも「外交」「対外交流」は、通時的な「重要課題」ではない、という「実態」があります。
  外交の一元化や対外交流の重視は、どうも実証史学と言うよりは、観念的な唯物史観や発展段階史観による先入観、先験的な「思い込み」によるものでしかない、と私は考えています。    
 日本史に於いては、むしろ列島内各地域間の「対内関係」が何時の時代も最重要であり、倭人世界、倭種世界の展開、通時的変化を、考えるべきでしょう。

石見介さん
上記は良く理解できるところですね。

上記の記述と、関川論の倭人伝における「邪馬台国(首都)と伊都国論(外港)の関係」の
見解否定との関係が良く理解できませんが?


Re: 邪馬台国九州説の論拠(2) ( No.149 )
日時: 2021年04月30日 00:02
名前: 石見介 [ 返信 ]
[ 削除 ]
当世奇妙さん
                                   
 「倭人/倭種世界」を、静態的staticに捉えるか。動態的dynamicに捉えるか?
 という問題意識です。                                                        
 私は、元々中高校生時代より、西洋史のゲルマン民族の大移動に興味を持っており、日本史については、邪馬台国問題は古田武彦氏の『邪馬台国はなかった』という、偶々大学卒業時のベストセラーに触発されて、関心を持つに至りました。
                           
 それまでは、日本人(民族)形成論や日本語の起源・系統論には興味があり、本も読んでいましたが、日本国家形成論には、正直関心がありませんでした。
 その日本人形成論の関連で、古典的な江上波夫、岡正雄氏らの対談集も読み、江上氏の騎馬民族説は、西欧史の西欧諸国家起源論における、ゲルマン諸部族の民族移動の役割、というか、異議と同じ様な認識ではないか?と感じました。
 しかし、どうも騎馬遊牧民が来た、という印象は、それまでに読んでいた自然人類学による日本人形成論と合わないと感じ、むしろ岡正雄氏の「ハラ、ウヂ」と言った文化人類学的な議論に、興味を持ちました。
                                            
 それでも、西洋史の国家形成史、民族移動史が、日本古代史にも援用できる、という印象はありました。
 で、古田氏の本をきっかけに、安本美典氏や、騎馬民族説否定論者の本や、邪馬台国関連の本を本を読むようになり、当初の古田・安本両氏の影響下の九州説から、徐々に、畿内説に転校することになりました。

 しかし、昔からのゲルマン民族の大移動史や西洋諸国建国史の影響が大きく、日本史では、どうも「日本民族形成史」の視点が、先験的に唯物史観に呪縛され、且つ、民族形成過程での、その領域の伸縮と言った動態を捉える視点が、欠如している、という不満がありました。
 倭人・倭種世界を、固定的に捉えず、時期によって変動する、と考えれば、その領域の中心は、当然移動します。
 北部九州が、倭人世界の「地政学的中心地」だった時期は、日本列島の東半部は、未だ非倭人世界であり、近畿が倭人世界の「地政学的中心地」になった時期には、北東北以西は倭人世界であり、逆に半島南部の倭種・倭人世界は、失われた、という認識に、至っていました。

 結局、邪馬台国時代の「倭種・倭人世界」の範囲を、どう考えるかで、私の邪馬台国位置論が決まります。

 関川論文の

>「邪馬台国(首都)と伊都国論(外港)の関係」の見解否定


 の根拠は、関川氏が、大和朝廷の「外港」として、まさに「難波」を指定した事にあります。
 『魏志倭人伝』を読む限り、邪馬台国と外港である伊都国の位置関係は、短里の様なトゥ主な読み方を容認しない限り、大和と難波の様な「近場」にはありません。
 むしろ、大和朝廷の「遠の朝廷」である大宰府管轄下の「博多」との類似性が高いでしょう。 
 


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