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大阪の香港化を目指す維新政治。 尊王攘夷 投稿日: 2023年04月01日 15:37:01 No.13020 【返信】

From 藤井聡@京都大学大学院教授

こんにちは。表現者クライテリオン、編集長の藤井聡です。


統一地方選の注目選挙区の一つは、やはり大阪です。府知事、市長共に長らく「維新」が独占する状況が続いており、この状況が続くのか、それとも非維新候補が勝利するのかが着目されています。

維新候補は知事選には吉村氏(現職)、市長選には横山氏(新人)で、非維新の候補は知事選には谷口氏(大学准教授&TVコメンテーター)、市長選には北野氏(元自民党大阪市議)らが出馬しています。

今回は、維新候補は所謂「大阪都構想」を全面に押し出してはいませんので、それが明確な争点にはなっていません(ただし、維新は「都構想を実現するための暫定的な政党だ」と多くの党関係者が口にしてきましたから、潜在的には重大争点であることに代わり有りませんが)。

その代わり、重大な争点になっているのが、IR、つまり「カジノ」問題です。

維新はカジノ推進。非維新はカジノ反対、あるいは、住民投票すべし、とスッパリと主張が二分されているのです。

維新は、カジノを入れることで経済が活性化し、税収も増える、と主張。

反対派は、カジノの社会的被害が甚大になるから反対、と主張。

ちなみに私は、(例えば韓国でそうしているように)日本人入場禁止にして、運営は全て基本企業がやるなら、あっても構わないが、そうで無い限り辞めるべし、という発言してきましたが、今でもそう考えています。

そして日本ではどうやら外国企業に運営を任せ、そして、日本人を入場させることが前提になって進んでいるようですから……結局はやはり、カジノ導入は大阪、そして日本のためにならないので、辞めるべき、という事になりますね。

じゃぁ、当方が反対する理由はなぜかというと、やはりカジノの社会的被害が甚大になるから、というもの。

カジノ導入の経済被害については、例えばコチラの論文で詳しく書かれています。
『大阪夢洲カジノの経済・環境問題』(桜田照雄、日本の科学者、54 (10), 2019)
file:///C:/Users/tba-p/Downloads/P10-17%20%E6%A1%9C%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%80%80%E5%86%8D%E6%A0%A1.pdf

この論文の数値に基づくと、

『韓国におけるカジノによるGDP被害は少なくとも2.9 兆円』

だと推計されていることが分かります(ギャンブルで仕事に集中できず生産性が2.9 兆円低下するとの推計に対応します)。

この推計方法の妥当性については別途精査が必要かもしれませんが、 もしこれが妥当であるとするなら、これに基づくと、日本のカジノによるGDP被害がどれくらいになるかをおおよそ推計することができます。

例えば、日本GDPは、韓国のGDPの2.72倍(現状韓国が1,810.97USDで、日本が4,932.56USDです)ですので、韓国における2.9兆円のカジノ被害と「同質」の被害が日本でもあると考えるなら、その2.72倍の「7.9兆円」のカジノ被害が日本で生ずると推計されることになります。

なお、この被害は、カジノ被害の一部を構成するに過ぎません。

当方は、この被害に加えて、日本人の所得が、カジノを通して外国人に吸い上げられ続けるという被害を懸念しています。カジノの規模や運営形態にもよりますが、それも加えれば(かつ、その乗数効果も考えれば)経済被害はさらに拡大し、10兆円前後にまで膨れ上がる可能性すら危惧されます。

なお、7.9兆円の経済被害を、国民一人あたりに換算すると、約6.3万円となります。

つまり、カジノが導入されると、国民一人あたり少なくとも6.3万円ものおカネを、毎年失う事になると推計されるのです。

ただしこの被害の多くはカジノのある大阪に集中しますから(逆に言うと、遠く離れた東京や名古屋の人達の所得はさして減らない)、大阪の人に限って言えば、一人当たり10万程度の被害は避けられないでしょう。そして大阪のカジノに大阪の人々が行く割合が高ければ(さらには外資による所得吸い上げ被害もさらに加味すれば)、一人あたり20万を超える被害が生ずることも十分考えられます。

そう考えると大阪在住の4人家族なら、年間40~80万円程度の被害を受けるということもあり得るという事になります。

この被害をゼロにするようなカジノ規制をかけるか、それをする気がないなら、カジノ計画は中止することが、大阪のためには絶対必要でしょう。

一度カジノができあがると、半永久的に営業を続け、大阪の所得が下落し続ける、という最悪の悪夢が延々と続くことになります。今回の大阪での選挙の結果如何ではそういう地獄が訪れる事になる……そういう緊張感をしっかり持って、投票判断を冷静に行うことが必要でしょう。

是非、しっかり考えた上で、投票にご参加ください。


/// 事務局より ///


保身の為に生きる政治家に、日本は潰される! 尊王攘夷 投稿日: 2023年04月01日 11:45:20 No.13019 【返信】

From 藤井聡@京都大学大学院教授

こんにちは。表現者クライテリオン、編集長の藤井聡です。

 統一地方選挙の中でも、特に大きな注目を集めている奈良県知事選挙、その注目ポイントの一つが、維新が奈良上陸を果たすか否かというものですが、それと連動するもう一つの重大ポイントが、自民党の幹部連中の謀略通り、高市氏が首相候補として潰されるか否か、という点。

 ここでは、この高市氏の命運問題についてお話ししたいと思います。これは、高市氏や奈良県の問題を超え、自民党の命運にも、そして日本の命運にも直結する、極めて重要な問題でもありますので、是非、最後までじっくりお読み下さい。 
        
……

 まず、奈良県はこれまで一貫して自民党が推薦する候補が知事に就任しており、(自民党結党以来)「非自民」の候補が知事になったことはありませんでした。

 で、その奈良県の自民党、すなわち「奈良県連」(自由民主党 奈良県支部連合会)の最高責任者が、高市会長です。

 そういう状況の中で、今、奈良県に初めて「非自民系」の候補が知事に就任する「リスク」が生じているのです。

 なぜなら、自民党系の候補が二名立候補するという「保守分裂」選挙となってしまったからです。結果、自民支持層が二つに割れ、漁夫の利を得た非自民候補が勝利する現実味を帯び始めているのです。具体的には今、下記三名の有力議員が立候補しています。

・保守現職の荒井氏
・保守新人の平木氏(元キャリア総務官僚の若手・高市会長の奈良県連会推薦)
・維新の木下氏(元生駒市長、外国人参政権推進論者)

こうして保守の現職(荒井氏)と新人(平木氏)の二名が立候補してしまったため、維新の木下氏が今、俄然有力となっているという次第です。

なぜ、こうなったのかといえば、次の様な顛末です(以下は全て、「永田町の化石」こと、当方が最も信頼する記者のお一人である政治記者の重鎮・泉宏氏の記事(https://toyokeizai.net/articles/-/656013)を基本とした解説です)。

 まず、奈良県連(高市会長)は、(四期も務めた高齢の荒井氏を見送り)平木氏の推薦を満場一致で決定します。通常なら、自民党本部は県連の決定を尊重し、平木氏推薦を決定するのが筋となります。

 しかし、何としても知事を続けたい現職の荒井氏は、関係の深い自民党の二階氏に応援を依頼したところ「頑張れ」と言われたのだと「吹聴」し出します。そして、県連の推薦がないまま、立候補を「決断」します。

 こうした状況を受けた自民党幹部の茂木幹事長と(二階氏側近の一人である)森山選対委員長は、「どっちつかず」
(出典:泉氏記事)の態度に終始し、結局、県連の決定を無視し県連推薦の平木氏の「党本部としての推薦」を見送る事にしたのです。

 その結果、保守分裂となってしまったという次第です。

 ここで、茂木・森山氏ら党幹部が自民県連の平木氏推薦を決定すれば、保守票がまとまり、新人の平木氏の勝利はほぼ確実になる筈なのですが、彼らはそれを見送ったのです。

 こう考えると、自民が奈良県知事を失う事が今回あったとすれば、その責任は事実上、「自民党幹部」にあるという構図が見えてきます。

 しかし自民党の内部では、そうなっていません。なぜなら、自民党幹部はこの状況を「高市総裁候補を潰すチャンス」と捉え「自民党内の権力闘争が絡む闇試合」(同上)を仕掛けているからです。

 そもそも、岸田総裁は、高市氏の台頭を快く思ってはいません。総裁選で第二位に付けた高市氏を脅威に感じているのです。高市氏を推挙していた安倍氏亡き今となっては、高市氏は単なる目の上のたんこぶになっているわけです。

 一方で茂木幹事長も森山選対委員長も共に、総裁選に打って出る可能性がある(あるいはキャスティングボードを握る)「派閥リーダー」です(共に茂木派、森山派の領袖です)。そんな彼らにしてみても、保守層の一般国民にやたらと人気のある高市氏は目の上のたんこぶです。

 こうして、自民党の幹部連中は皆、それぞれの思惑の下、高市氏をどうにかして今のうちに潰したい、と考えているわけです。そんな中、二階氏が現職の荒井氏に「頑張れ」と口にしたというのを耳にし、「これは高市氏を潰す良いチャンスだ!」と色めき立ったわけです。結果、森山選対委員長はあえて、高市氏が推薦する平木氏に対して、党本部から推薦することを見送ったと見られているのです。

 そして岸田氏もまた、こうした流れを「高市潰しのチャンス」と捉え、「森山氏任せの傍観者」(同上)を装い、この状況を「あえて放置」(同上)していると観られているのです。そうすると当然、維新候補が勝利する可能性が高まるわけですが、それを見通した岸田氏は、「維新が勝ってもすべて高市氏に責任を押し付けようとしている」(同上)という次第です。

 以上が、泉氏が「自民党内の権力闘争が絡む闇試合」(同上)と記述したその内実です。

 そして、泉氏はその記事を次の様な言葉で結んでいます。

『「今回知事選で自民一本化に失敗し、維新に名を成さしめれば、首相候補としては一貫の終わり」(同)となるのは避けられそうもない。』(同上)

 あわせて泉氏は、この記事の中で『今回自民分裂による選挙となれば、「維新県政誕生の可能性は極めて高い」(選挙アナリスト)との見方が広がる。』という見解も紹介しています。

 ですから、この(公示前公表の)記事は、

「保守分裂となった今、維新県政が誕生し、その責任をとらされ、高市氏は首相候補として一貫の終わりとなる」

ということが「既定路線」であることを示唆しているのです。

 これが真実だとすれば、岸田総裁、森山選対委員長、茂木幹事長は、「途轍もなく腹黒い悪いヤツら」という事になります。なぜなら、彼らは「高市氏を潰して自分の地位を安泰にするために、あえて保守を分裂させ、結党以来守り続けてきた奈良県知事の座を、維新にくれてやろう」としているからです。

 つまり彼らは、国益や奈良県の利益などそっちのけで、さらには自分達の政治共同体である自民党の利益すら度外視して、浅ましく自らの保身のための「高市つぶし」を目指し、維新に知事の座をくれてやろうとしているのです!さらに言うなら、国や奈良、そして自民の利益よりも、自分達の保身を優先しているのです。

この泉氏が記事を通して示唆した物語が真実だとすれば、岸田氏、森山氏、茂木氏はなんと浅ましくおぞましい輩達なのだろう、という事になりますが……実際には必ずしも、自民最高幹部が思い描いた絵の通りに事が運ぶとは限りません。

確かに、各有権者がただ自らが支持する候補者に投票するいう素直な展開となれば、保守は両者共倒れとなり、維新候補が勝利する事になります。

ところが、既往の政治心理学研究から、実際の選挙で人々は、もっと「戦略的」に投票することが知られているのです。

今回の場合なら、維新候補の勝利を避けたいと考える層、あるいは、とにかく自民党系の候補者の知事がよいと考える層は、

『荒井が良いか平木が良いかという判断を停止し、どちらの保守候補が優勢なのかの情報を得て、より優勢な保守系候補に兎に角投票する』

という行動に出始めるのです。

事実、3月上旬時点での支持率が、下記報道で以下の様な状況だと報道されています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1775b579cb77db158642abdfb0e220e663f907c5

   33% 維新 山下候補(元生駒市長)
   28% 保守 平木候補
(自民県連推薦・新人・元若手キャリア官僚)
   18% 保守 荒井候補(現職)

(ちなみに、自民党支持層に限れば平木支持が4割、荒井支持が2割とダブルスコアと報道されています)
https://news.yahoo.co.jp/articles/fd837ed184065d04656a70041efabd417cbe3bfa

この結果は、

第一に、荒井氏に勝ち目はほぼ無い(平木氏との9%の差は埋めがたい)、
第二に、維新山下氏は、平木・荒井氏の保守票を合わせれば絶対に勝てない(33%vs合計43%)、
第三に、2位の保守平木氏と1位の維新山下氏との差は僅かで、余裕で逆転できる範囲にいる、

ということをそれぞれ意味しています。

ちなみに、この三候補の中で、もっとも知名度が低いのが、新人の平木候補です。荒井氏は現職だし、維新候補は以前知事選に出た事もあり、かつ、生駒市長として「外国人参政権」の推進論者として(善し悪しはさておき)一定の知名度があるからです。したがって、選挙戦が進み、新人の平木氏の知名度が上がることは確実で、さらに支持を伸ばす公算が高い、とも分析できます。

ついてはこの情報が有権者に広まれば、保守票が荒井氏から平木氏に流れ、事実上、有権者の判断によって保守候補が自ずと『一本化」され、平木候補が勝利する可能性がグンと高まる事になります。

もしそうなれば、高市氏は「一貫の終わり」(同上)状況から自民幹部からの”イジメ”という逆境を跳ね返し、”古い重鎮達が牛耳る自民党を終わらせる力”を持った『保守派のマドンナ」(同上)として、高い評価を受ける存在に躍り出る事も大いに期待されることにもなります。そうなれば、緊縮政治の維新に打撃を与えると同時に、「古い自民党」から脱却し、緊縮財政に終止符を打ち、凋落し続ける日本が救われる……という未来に繋がるかもしれません。

果たして、自民重鎮や維新の連中が描いた絵の通りに事は進むのか、それとも「保守派のマドンナ」(同上)高市早苗氏が一矢報い、日本再生の希望をつなぎ止めることができるのか……奈良県知事選挙は、奈良の一ローカルの次元を超え、保守政党たる自民党、さらには日本全体の命運にも繋がる一大決戦でもあるわけです。

奈良県の方は勿論の事、全国の方も是非、奈良県の選挙戦の動向を大きくご注視頂きたいと思います。


/// 事務局より ///


政府の隠蔽体質 尊王攘夷 投稿日: 2023年03月21日 06:59:35 No.13018 【返信】

【極秘だった悲劇の事件:対馬丸事件】


「お父さん、お母さん、助けて!」
「先生、怖いよ…死にたくない…」

今から約80年前、
幼い命がたくさん失われた、この事件を…


1944年8月22日、

日本がまだ大東亜戦争の
さなかにあった頃、
突然、その事件は起きました。

時刻は夜の10時過ぎ、
疎開する学童たちを乗せた対馬丸が
沖縄から九州に向かっている途中…

ボーン!ボーン!ボーン!

突如響き渡る爆発音とともに
海上は大きく揺れました。

そこには、まるで獲物が
罠にかかるのを待っていたかのように、

海面に浮上したアメリカの潜水艦が、
対馬丸に向かって何発もの魚雷を
発射していたのです。


(出典:wikipedia)

徐々に傾いていく船に、

「お父さん、お母さん、助けて!」
「先生、怖いよ…死にたくない…」

そんな悲鳴が、船上の
あちこちで響き渡りました。

しかし、その声も虚しく、
船はほぼ垂直に傾いた状態で沈没。

攻撃から船が沈むまで、
わずか10分ほどの出来事でした。

この事件で、
船に乗っていた学童や引率教員、
兵員ら1,788人のうち、
約1,500人の命が失われ、

しかも、その半分以上が
こどもたちでした。

ですが、この事件は“秘匿”とされ、
当時は、口にすることを禁ずる
命令まで出ていたのです。

なぜなら、この事実を知ると、
その後の疎開が滞ると思われたから…

そのため、この悲劇は
現在においてもほとんど
公にされていませんが、

実は、この事件が起きた数年後に、
遺族の方から“ある声”があがっていました。

「戦争に巻き込まれ、命を落としていった
 子どもたちの想い、最後まで助けてと
 叫び続けた彼らの想いを
 決して忘れないで欲しい。

 このことを日本の歴史に刻み、
 後世に伝えていくためにも、

 国のために命を落としていった
 兵士たちと同じように、
 靖國神社に祀って欲しいのです」

こうして、遺族らの強い想いは
国民政府に通じ、

1966年、子どもたちの魂は
坂本龍馬や吉田松陰など、
明治維新の英雄が眠る靖國神社へ
一緒に祀られることとなりました。

靖國神社というと、今ではA級戦犯など、
大東亜戦争の戦没者ばかりが
報道されていますが、

実は、この対馬丸事件のような、
日本のために命を落とした
子どもたちや民間人なども
祀られているのです。

しかし、今日のメディアは、

「軍国主義者を祀る靖國神社」
「靖國神社はアジア中の怒りの的」

…などが議論の的となり、
靖國神社の歴史や本質的な部分は
あまり重要視されていないようです。

その結果、 日本人として記憶しておきたい
靖國神社の重要な部分は伝えられずに、
ただネガティブなイメージばかりが
今の日本には広がっています。

日本経済大学の准教授を務める傍ら、
400名以上の戦争経験者、500社以上にも及ぶ
全国各地の神社を調査する
久野潤先生はこのように仰います。

「残念ながら、
 メディアや一部の学者はこう言うのです。

 “靖國神社というのは、
 日本の侵略戦争に参加して
 亡くなった人を祀っているのだから、
 戦争を美化する神社だ”と。

 しかし、そういうことではない。
 基本を履き違えているのです。

 まずは、その基本を
 押さえなければいけません」


今も皇室が続く理由、現政府では日本は滅ぶ。 尊王攘夷 投稿日: 2023年03月20日 18:02:15 No.13017 【返信】

「今より3年間、全ての課役をやめて
 民の苦しみを取り除け!!」

これは、「古事記」に書かれた、
仁徳天皇の発言だと言われています。



なぜこのような発言をしたのでしょうか?

それは仁徳天皇が当時の人々の貧しさを
目の当たりにしたからでした。

当時、人々は貧しさゆえに、
家でご飯を炊くことすらできず、
街には煙がどこにも立っていない
という悲惨な状況でした。

それを見た仁徳天皇は
まずは民衆を豊かにするため、
この日から3年間、
人々への課役をやめさせたのです。

そして、自身も服や履物が
破れて使えなくなるまで新調せず、
ご飯やお吸い物も酸味を生じて
食べられなくなるまで取り替えなかったと
書かれています…

そして3年後、人々が豊かになり、
再び仁徳天皇が街を見下ろすと、
そこにはあちこちにご飯を炊く煙が
立ち上っていたのでした。

「天皇は人々に奉仕するものだ」と
おっしゃる仁徳天皇は、
人々からも非常に慕われていたと
伝えられています。

そんな仁徳天皇への敬意の大きさを
最もよく表しているのが、
仁徳天皇のお墓とされている
「大仙陵古墳」。



この古墳は、世界三代墳墓の一つで、
クフ王のピラミッドや、
秦の始皇帝のお墓を凌いで
世界一の大きさなのです。

このように敬意が表される人物を弔うのに、
はるか昔には“古墳”が造られていました。


日本の食文化を破壊した国とは? 尊王攘夷 投稿日: 2023年03月17日 18:03:08 No.13016 【返信】

日本人はクジラの供養塚を建ててきた

我が先人たちはクジラの命に感謝して無駄なく利用し、
その上でクジラの霊が成仏するように祈ってきた。

■1.クジラに供養塚を建て、戒名を与えてきた日本人

 捕鯨は江戸時代には日本各地で盛んに行われていたが、
捕鯨の港の近くのお寺には、必ずと言って良いほどクジラの供養塚や墓がある。
さらに、捕れたクジラ一頭ずつに戒名をつけ、供養している所まである。

 昔からクジラを利用してきた国々は多いが、
このようにクジラの霊を供養してきたのは、日本だけである。

 また、我が国ではとれたクジラは肉だけでなく、
骨はかんざしや櫛に、ヒゲは楽器に、内臓は各種の薬に、
というように、すべての部位を利用してきた。

 我が先人たちはいただいたクジラの命に感謝して無駄なく利用し、
その上でクジラの霊が成仏するように祈ったのである。

 これとは対照的なのが、アメリカの捕鯨である。
19世紀中葉には、アメリカの捕鯨船は日本近海までクジラを捕りに来て、
そのために1万頭ほどもいたセミクジラは1千頭ほどに激減したと言われている。

 それも灯油や機械油とするために、
体重の10パーセントほどしかない脂肪をとるだけで、
残りの肉も骨も内臓もすべて海に捨てていた。

 アメリカ国内で石油が発掘されるようになると、
捕鯨は衰退し、今度は一転して
「クジラを捕る民族は野蛮だ」「クジラがかわいそうだ」と言い始める。

 その変わり身の早さは別の問題として、
日本人にはクジラに対して、他国民にはない、
格別な思い入れがあった事を知っておく必要がある。


■2.縄文時代からクジラを食べていた日本人

 日本人とクジラとのつきあいは、有史以前に遡る。
8千年から9千年前の縄文時代の貝塚から、
たくさんの鯨類の骨が出土している。

 たとえば縄文時代の前期から中期のものと
言われる長崎県平戸市にあるツグメノハナ遺跡の貝塚からは、
たくさんのクジラやイルカ、サメなどの遺骨が出土している。
クジラの解体や皮剥などに使ったと思われる石器も出てきている。

 興味深いのは、クジラの骨の加工品も出土していることだ。
箸のような突き刺す物や、首飾り、腕輪などの飾り物である。

 日本列島の近海は、北からの親潮、
南からの黒潮が合流するので、もともと多くの魚が集まる。
それを追いかけて、クジラがやってくるので、
日本近海は世界で有数のクジラの多いところなのである。

 海流に乗ってやってきたクジラが湾内に迷い込み、
浅瀬に乗り上げて動けなくなることも少なくなかった。
縄文時代には、こうしたクジラを捕獲していたと思われる。

 弥生時代に入ると、船を使って、
湾内に迷い込んできたクジラを捕獲する、
より積極的な捕鯨が行われたと考えられている。
長崎県壱岐市の原(はる)の辻遺跡から
出土した約2千年前(弥生時代中期後半)の
甕棺(かめかん)には、捕鯨の絵が残されている。

 興味深いことに、縄文時代、弥生時代ともに、
複数の集落から同じクジラの個体の骨が出土していることが判明している。
すなわち、クジラが一頭揚がったら、
かなり広い範囲の集落に肉が配られ、近隣で分かち合っていたようだ。


■3.久治良(くじら)、勇魚(いさな)

 古事記、日本書紀、風土記、万葉集など、
日本で最初の文献類にも、すでにクジラが登場する。

 古事記には神武天皇がクジラを食べたという記述がある。
原文ではクジラは「久治良」と表記されている。

「常陸国風土記(ひたちのくに、ふどき)には、
現在の茨城県久慈(くじ)郡の地名は、
そこにある丘のかたちがクジラに似ていることから、
「倭健命(やまとたけるのみこと)が久慈と名付けた」とある。

 クジラは勇魚(いさな)とも呼ばれ、
クジラをとる人を「いさなとり」と呼んだ。
「いさな獲り 海の浜藻の、、、」と、
「いさなとり」が海にかかる枕詞になっている歌が、
日本書紀に出てくる。

 万葉集でも
「いさなとり」という枕詞を使った歌が12首もあり、
当時の貴族階級の生活に、クジラが浸透していた様子が窺われる。

 奈良時代には仏教の影響力が強く、
肉食禁止令が出るほどであったが、
海で獲れるクジラは「勇魚」、
すなわち海の魚と考えられていたため、
制約はなかったようだ。

 平安時代にはクジラが捕れると、
その肉を塩や醤油、味噌につけて京に送った。
これを京の都に住む貴族や上級武士たちは、好んで食べていた。

 室町時代になると、文献の中でクジラの記述が飛躍的に多くなる。
当時、位の高い貴族や武士の宴会では、
「式三献」という儀式があった。
杯が酌み交わされてから、
海の物、山の物、野の物、里の物という順に食べ物が出てくるのだが、
海の物の中では、鯛(たい)、鯉(こい)に次いで鯨肉が出てくる。

 室町末期に書かれた『四條流包丁書』という料理書には、
食材としての魚の格付けが載っているが、そこでは最高の鯉の次がクジラなのである。

 クジラは普通の魚よりもずっと味が濃厚で、
活力源となるタンパク質や脂肪も豊富である。
おいしく、栄養源としても優れた食材として、珍重されていた。


■4.江戸時代には鯨食が庶民にも広まった

 江戸期になると、庶民の間にも鯨食が普及していった。
当時の江戸の町を描いた絵を見ると、居酒屋の軒先に「鯨」と書かれているものがある。

 元禄時代に刊行された『本朝食鑑』は、さまざまな食べ物が登場するが、
「毒がなく、最も人の体に良くて美味しいものは何かといえばクジラである」と書かれている。

 江戸時代中期には、
『勇魚取絵詞(いさなとり・えことば)というクジラの専門書も出版されて、
クジラの種類、捕り方、解体の道具と方法、部位の名称などがすべてまとめられている。
その付録の『鯨肉調味方』には、クジラの67の部位のすべての調理法が記述されている。

 一般的な食べ方としても、生で刺身として食べる、鍋で煮て食べる、
その他、ハリハリ鍋や、味噌で煮込んだクジラ汁など、調理法のバリエーションも非常に多かった。

 特に鯨肉は米食との相性も良かった。
米には味噌漬けや醤油漬けなどのしょっぱいものが合う。
味噌や醤油のうまみはグルタミン酸によるものだが、
そのうまみをクジラのイノシン酸は美味しく引き立てる。
イノシン酸の多い鰹節が、醤油の味を引き立てるのと同じ作用である。

 米を主食とし、醤油や味噌を多用する日本人の食生活の中で、
鯨肉はまことに相性の良い食材だった。


■5.捕鯨技術、保存技術の進歩

 鯨食が庶民にまで普及したのは、
供給面の発達と、保存・運搬方法の進歩による。

 正徳3(1713)年ごろに出版された
『和漢三才図絵』は絵入りの百科事典だが、
そこには日本列島の地図が載っていて、
各地方の捕鯨地が記されている。
現在の佐賀県呼子、和歌山県太地、北海道松前、
長崎県五島列島などが捕鯨の中心地であった。

 井原西鶴の『日本永代蔵』には、
和歌山の太地にいた「クジラ突き(クジラを銛で打つ人)」の名人、
太地角右衛門をモデルにした男の話が出ていて、歌舞伎にもなっている。
この男は約60メートルのセミクジラをしとめて、
前代未聞の大きさであると書かれている。

 その後、この太地で、丈夫な麻で造られた巨大な網を使った捕鯨法が考案された。
何隻もの船で沖合に、小学校の校庭ほどの大きな網を張り、
クジラをここに追い詰めてから銛で突いて弱らせ、
網船で引っ張ってくるという捕鯨法である。
これは歴史的に見ても、世界中どこにもない、日本独特の捕鯨方法であった。

 これによりクジラは逃げる事もできず、また沈んでしまうことも防げるので、
捕鯨の効率が飛躍的に高まった。この捕鯨法は全国に広まっていった。

 また各地で捕鯨のための組織「鯨組」が成長していった。
鯨組を構成するのは、海上での捕鯨従事者、陸上での解体、加工、運搬従事者、
采配する親方などを含めて中規模組織で7百人程度。
太地では3千人もの規模があった。
当時としては、銅山などとならんで、
鯨組はもっとも大きな産業組織ではなかったかと言われている。

 保存技術の進歩もあった。獲れたクジラを塩漬けにすると、
長期間、保存できるが、塩のために水分が抜けて、かさかさになってしまう。
それを防ぐために稻わら(荒いむしろ)で巻くと、水分が保存される。
これでおいしさを何ヶ月も保てるようになった。

 海から取れる塩も、また稻わらも、
我が国には無限にあったので、この保存方法は、まことに好適であった。


■6.「いただきます」という言葉は日本人だけのもの

 冒頭に述べたように、全国の捕鯨地のお寺には、
たいていクジラの墓や供養塔がある。
このようなクジラ供養が始まったのは、
鯨組ができて発展していった1700年頃からである。

 人間が生きるためとは言え、
クジラを殺し、食べる事に対して、
申し訳ないという気持ちがあったからであろう。

 どうか成仏して欲しい、という気持ちで、クジラ一頭一頭に対して、
位牌をつくり、供養塔を建て、戒名をつけた。
このような文化を持つ国は日本以外にはなかった。

 考えてみれば、米にしろ、パンにしろ、肉や魚、野菜にしろ、
人間が食べるものは、すべて生命あるものである。
そういう命をいただく事によって、我々の命は成り立っている。
_________
 だからこそ、食べ物に宿る命は大事に、粗末にしてはならないのだ。
そこには感謝がなければいけない。
日本人の「いただきます」という言葉は、
あなたの命をいただかせていただきますという意味なのである。
実は、この「いただきます」と同じような意味を持つ言葉は、
日本以外にはどこにもない。

 例えばキリスト教では食前に神に感謝するが、
生き物や食べ物に対する感謝ではない。・・・

 あなたの命をいただかせて「いただきます」
という言葉は日本人だけのものである。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そしてクジラの命をいただく以上、
その一部でもムダにしては申し訳ない。
だからこそ、我々の先祖は、
骨や歯、ヒゲ、内臓に至るまで、
すべての部位を有効に活用してきたのである。


■7.食物連鎖の中で生かしていただいている

 捕鯨反対の理由の一つとして
「クジラを殺すのは可哀想だ」と言う声があるが、
クジラ以外の牛や豚や羊や鶏は殺しても可哀想ではない、
というのは理屈が通らない。

 植物しか口にしないベジタリアンがこう言うのなら、
まだ分かるが、極論を言えば、植物にも命がある。
すべての動植物は、食物連鎖の中で他の命をいただきながら、
自らの生命を保っているのである。

 我々の先祖は、
自分たちもこの食物連鎖の中で生かしていただいている、
という感覚を持っていた。

それがクジラの墓を作り、
またすべての部位を無駄なく使わせていただいてた、
という行為に現れている。


■8.忘れ去られた「いただきます」の知恵

 明治以降、西洋諸国から近代的な捕鯨方法が導入された。
遠洋まで出かけられる大型船で、捕鯨用の大砲や銛を備え、
それまでの網捕り方式とは比較にならないほどの
大量のクジラが安全確実に捕れるようになった。

 我が国も、この近代捕鯨法を導入し、
世界有数の捕鯨国にのし上がった。
捕鯨が全世界の海洋で競って行われるようになり、
各国が捕鯨数を競い合う
「捕鯨オリンピック」なる言葉までマスコミで使われるようになった。

 この近代化の過程で、
日本人は「いただきます」の心を忘れ去ってしまったようだ。
クジラへの感謝の気持ちも、その成仏を祈る心も忘れ、
ちょうどアメリカの捕鯨船がクジラの脂だけとって後は捨ててしまったように、
クジラを大量生産・大量消費の「資源」としてしか考えなくなったようだ。

 そして多くの捕鯨国が、
こうした姿勢で世界中の海洋で捕鯨競争に奔走した結果が、
クジラを一時、絶滅の危機にまで追い込んだのである。

 欧米流の考え方では、
地上の資源はすべて人間のためにあるとして取り尽くしてしまうか、
それを防ぐために聖域として一切の利用を禁ずるか、
の二者択一の発想しかないようだ。

これは、あまりにも単純な発想である。

 クジラの命を感謝して、
無駄なくいただきながら共生を図る。
日本古来からの「いただきます」の知恵を今こそ思い起こすべき時ではないか。

(文責:伊勢雅臣)


学生を利用した左翼ユダヤの日本侵略 尊王攘夷 投稿日: 2023年03月14日 16:24:50 No.13015 【返信】

学生運動の嵐が吹き荒れていた
1969年5月13日。

三島由紀夫は東京大学に立ち
当時大学を占拠していた
「東大全学共闘会議(東大全共闘)」

つまり、
左翼学生の総本山とも言える
学生団体に対峙していました。

右と左…保守と革新…

政治的に真っ向から対立する
両者は、どのような討論をしたのか。

この討論に関して、
当時の学生運動にも参加していた
東北大学名誉教授・田中英道先生に
ご解説いただきました。

ぜひ、ご覧ください。

==============

From 田中英道

世界を覆っていると同時に、
もちろん日本もまた覆っている
思想の主流は、「批判理論」です。

「否定的弁証法」という方法を使って、
常に現実を否定します。
それが革命運動だとされてきました。

ブキャナン*はまた、
(*アメリカ合衆国:第15代大統領)

《批判理論の衝撃を受け、
 史上最高に恵まれていたはずの
 60年代世代の多くが、

 自分たちは耐えがたき地獄に
 生きていると確信した》

と述べています。

日本人もまた、自分たちは
「疎外」されていると教えられ、
そう思い込みました。

長髪で髭をはやした若者がギターを奏で、
盛んに反戦を叫ぶようになったのもこの頃です。

1960 〜 70年代の
フラワー・チルドレンと呼ばれた
ヒッピー世代は、

「批判理論」が
生んだ世代ということになります。

多かれ少なかれ、
この世代の人々はこの思想通りの
姿をしていました。

「反抗の世代」です。

日本では、1960年に
安保闘争が展開されました。

その後左翼は内ゲバを体験し、
分裂していきましたが、
69年に、世界での「五月革命」の
影響を受けて運動が再燃しました。

そして、1970年つまり昭和45年に
三島由紀夫が自決するわけですが、
その前年に、三島氏は、
東京大学で東大全共闘の学生と討論を行い、

その様子が
『討論 三島由紀夫vs東大全共闘———
 美と共同体と東大闘争』(新潮社 一九六九年)
にまとめられています。

たとえば、三島氏と学生との間に
次のようなやりとりがありました。


三島:
「しかしやっぱりぼくは日本人である以上
 日本人以外のものでありたいと思わないのだな。」

全共闘C :
「しかし日本、日本人というのは
 どこに事物としてあるわけですか。」

三島:
「事物としては外国へ行けばわかりますよ。
 英語をしゃべっていると自分は日本人じゃ
 ないような気がするのです。
 英語が多少うまくなると。

 そして道を歩いている姿が
 ショーウィンドーに映ると、
 このとおり胴長でそして鼻もそう高くないし、

 あ、日本人が歩いている、
 だれだろうと思う。
 これはどうしても外国へ行くと痛感するね。」

全共闘C:
「しかし人間すら事物にまで
 いかない限り無理ですよ。」

三島:
「その国籍を脱却するということは......。」

全共闘C :
「脱却するということよりも、
 むしろ最初から国籍はないのであって………。」

三島 :
「あなた国籍がないわけだろう。
 自由人としてぼくはあなたを尊敬するよ。
 それでいいよ。

 だけれどもぼくは国籍を持って
 日本人であることを自分では抜けられない。
 これはぼくは自分の宿命であると
 信じているわけだ。」


《歴史にやられちゃう》
ことを批判する学生に対して、

《やられちゃうというか、
 むしろ歴史にやられたい》

と応答する三島が登場します。

明らかに全共闘の学生は、
戦後の批判理論を信奉しています。

その「批判理論」に対抗しようとする
三島氏の日本人であることを主張した議論が
ここに見えているわけです。

今でいえば、学生のグローバリゼーションと、
三島のナショナリズムの対決です。

ただ、当時の東大全共闘の学生たちが
そういうこと、つまり、自分たちが
何と戦っていたのか理解していたかは
わかりません。

戦後は、マルクス主義の思想が
日本を襲っていました。

人々の中に「批判」「批評」
意識が蔓延して、
人の話を聞いても「批判的」
反応をすることが、

あたかも日本の知識人に
必要なことだと思わされました。

戦後、「理由なき反抗」
などという映画が大好評になったことを
「団塊の世代」の皆さんは
覚えていることでしょう。

これで、
「家庭の崩壊」「自立の思想」が
当たり前の態度なのだと、
思うようになったのです。

このように、
戦後日本に蔓延した思想に対して、
今多くの日本人は、
ナショナリズムへ切り替えるための、
知識、教養が失われていることに
気がつき始めました。

「日本文化とは何か」
を今や答えなくてはなりません。

日本人なら慌てる必要は
ありません。

自分の中に潜在化している伝統の
「日本人を肯定」し、
取り戻していけばいいからです。


皇居爆撃 尊王攘夷 投稿日: 2023年02月26日 17:20:14 No.13014 【返信】

1945年、空襲で荒廃した東京に
ラジオからのニュースが流れる

しかし、そのニュースからは
国民が耳を疑うような
言葉が突然流れ出した…

1945年5月24日…

東京の空に、空襲警報が響く。

いつもと桁違いの米軍機の数に、
住民たちは怯える。

そして、その米軍機たちは、
日本の“ある特別な場所”に爆弾を落とした。

それは…

“皇居”

なんと皇居の、天皇陛下がお住まいになられている
明治宮殿が爆撃に遭い、全て炎上したのだ


(更地と化した明治宮殿)

「GHQは皇居を空襲の目標から外していた」

そう教わった人も中にはいらっしゃるのではないだろうか?

当時の日本人も、

「まさか、皇居が爆撃されるなんて…」

と戦慄…

実際、この爆撃は米国も意図していない
誤爆だったようだが、

それでも、5月24日〜25日に
行われたこの空襲で

・明治宮殿、大小27棟全て炎上

・大宮御所の一部炎上

・赤坂御所、東久邇宮邸、朝香宮邸、
秩父宮邸、三笠宮邸一部炎上

など、皇居や皇族の邸宅が被害を受けた。

さらにこの皇居を焼いた空襲は、
皇居だけでなく東京の大部分を焼き払い、

銀座・赤坂・渋谷・新宿・池袋などの主要都市は壊滅

その被害地域は、教科書で習う3月10日の
東京大空襲の約5倍であったという…

しかし、GHQはこれらの事実を全て隠蔽…

当時放送されていたラジオ番組では
この空襲の存在を有耶無耶にしながら、

「皇居が炎上した例は過去にもあります。
いや、過去の方がよっぽど酷かったのです」

などと皇居を“爆撃”したということすら
誤魔化そうとしていました。

そして空襲など被災風景の写真は発表禁止とし、
多くの写真がGHQによって奪われ、処分…

今でも3月10日の東京大空襲は
様々なところで語られますが、

この5月24〜25日の空襲は
存在すら語られることはあまりなく…

それどころか、皇居を爆撃された
事実すら知らない人も多いです。


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