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郷土芸能演芸場 tabi 投稿日: 2024年01月11日 20:22:21 No.6670 【返信】

服部家屋敷跡
資料展示場
島の成り立ちや歴史、風俗などの文化財や資料を見やすく展示。
浜口 興右衛門(はまぐち おきえもん)日本の武士・幕臣。明治期の海軍技官(中将)。諱は英幹(ひでもと)。31歳の時、咸臨丸でサンフランシスコへ。

流人太田道寿と浜口興衛門
江戸城構築で知られる太田道潅の弟が太田道寿です。 その道寿が、なぜ八丈島に流されたのか。犬公方(くぼう)といわれた五代将軍綱吉の御典医である、道寿は、病床の 綱吉の気晴らしに、と芸者を箱に入れて差し向けました。これが発覚しまして、 寛永元年(1624年)、八丈島に流されたといわれます。

勝海舟と八丈島
勝海舟の父小吉が八丈島に懲らしめの為送られ、その時に子供だった海舟も八丈島に住んだとの話も伝わっているようです。
勝 小吉(かつ こきち)は、江戸時代後期の旗本。旗本・男谷平蔵の三男。妻は勝甚三郎の娘で、勝家の養子となる。勝海舟の父。

説明と他の写真22枚は↓をご参照下さい。
https://ameblo.jp/tabicom/entry-12835936146.html




服部家屋敷跡 tabi 投稿日: 2024年01月10日 20:22:47 No.6669 【返信】

幕府御用船を管理していた服部氏の屋敷跡です。
比高10メートルほどの高地にあり、石垣がまさに城跡らしい雰囲気を出していますね。正面の入口は喰い違い虎口状となっており、江戸時代、幕府への貢上絹(年貢としての黄八丈)を運ぶ、御用船のお船預りの役にあった服部家の屋敷跡です。

案内板
服部屋敷
服部家の初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船の内、小舟方(こぶねがた)のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた。
屋敷入口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたものである。

大蘇鉄
庭内中央には樹齢八百年の大蘇鉄があります。蘇鉄の大きな物は、幹の長さ1メートルで約百年位といわれています。
「嬉しさに 人にも告げん さすらへの みゆるしありと 赦免花咲く」
八丈島で、無実の罪に抗議して餓死したと伝えられる僧侶・慈運の墓にあった2本の蘇鉄の花を指す。

説明と他の写真16枚は↓をご参照下さい。
https://ameblo.jp/tabicom/entry-12835510496.html




樫立住民総会百年記念 tabi 投稿日: 2024年01月09日 20:06:16 No.6668 【返信】

樫立出張所前バス停 
樫立住民総会百年記念
樫立地区の恒例行事「住民総会」が有ります。この会は、正式には「第100回 樫立住民総会 樫立自治会総会」という名称で、長い歴史を持つ伝統行事です。

奥山表松君頌徳碑
頌徳碑(しょうとくひ)
偉人や先覚者などの徳をほめたたえる文章を刻んだ碑。
奥山表松氏については資料が見つかりませんでした。

樫立小学校発祥の地
樫立小学校は明治10年(1877) に創立後、しばらく個人宅を教室にあてていたが、最初の校舎は明治34年(1901) から4年をかけて完成した。児童数減少等により、平成19年(2007) に閉校、近隣の中之郷小学校と統合され三原小学校としてスタートした。

説明と他の写真12枚は↓をご参照下さい。
https://ameblo.jp/tabicom/entry-12835469509.html




行事食 tabi 投稿日: 2024年01月08日 20:12:29 No.6667 【返信】

七草粥(ななくさがゆ)
人日の節句(1月7日)の朝に食べられている日本の行事食(料理)である。春の七草や餅などを具材とする塩味の粥で、その一年の無病息災を願って食べられる。
祝膳や祝酒で弱った胃を休める為とも言われる。

地方での差異
気候や降雪の関係で七草が摘めない東北地方では、七草を使わない粥を炊く。山形県の村山市周辺ではゴボウ、ニンジン、こんにゃく、ずいき、油揚げなどを入れた納豆汁、七草汁を1月7日の朝食として食べる。

春の七草
芹(せり)せり 薺(なずな)御行(おぎょう/ごぎょう)繫縷(はこべら)仏の座(ほとけのざ)ほ菘(すずな)蘿蔔(すずしろ)すずな、すずしろに関しては異論もあり、辺見 金三郎は‘食べられる野草(保育社)の中で‘すずな’はノビル、‘すずしろ’はヨメナとしている。

説明と他の写真30枚は↓をご参照下さい。
https://ameblo.jp/tabicom/entry-12835773112.html




黄八丈めゆ工房 其の二 tabi 投稿日: 2024年01月07日 22:20:40 No.6666 【返信】

糸染め
黄八丈は、八丈島に自生する草木を染料とした純粋な草木染で、「刈安の黄色」「マダミの鳶色」「椎の木と泥の黒」の3色を基調とし「白」を組み合わせて独特の配色を織り上げられています。多くの業者が化学染料を利用するようになりましたが、め由は八丈島に自生する植物染料に拘りました。

黄染めの灰汁づくり
八丈島の梅雨が明けた八月初旬頃の良く晴れた風のない日に、椿と榊を焼きます。
このことを灰焼といいます。
一年分の灰をまとめて作るため、椿と榊を3000kg以上準備します。

地機(じばた)
5世紀ころから日本で使用されたとみられる手織機で、いざり機,下(した)機,神代(じんだい)機とも呼ばれた。布巻具を腰当てで体につけ、座って織るので、経糸はかなり傾斜している。このため有機台傾斜機に分類される。

説明と他の写真25枚は↓をご参照下さい。
https://ameblo.jp/tabicom/entry-12835282450.html




大坂夕照(せきしょう) tabi 投稿日: 2024年01月05日 20:30:07 No.6665 【返信】

八丈島三日目
「大坂の夕照」として八丈八景に詠まれているほどの美しさを誇ります。

大坂は島一交通の難所で、此処を境に大賀郷、三根は坂下、樫立、中之郷、末吉は坂上と呼ばれている。隧道は日露戦争戦勝記念に掘られたが、その後莫大な費用を投入して隧道の拡幅や横間道路の改修をし、最近夢の逢坂橋が完成し、夕日の美観が八丈八景に選ばれている。

そばだてる 巌に憂きを 隔てつつ 夕日涼しく 越える大坂
                鹿島 則文。

大坂隧道之碑
八丈島は大坂越(おおさかごし)、登龍峠を境にして坂上3村と坂下2村に分かれていました。この坂上と坂下を結ぶ主要街道の大坂越は、急な坂で崩壊も多く、危険な道でした。1907年に日露戦争の戦勝記念事業として、大坂トンネルと大里を結ぶ新道が建設されました。工事の途中では、何度も大崩落が起こって、そのつど犠牲者を出したうえ、政府や東京府からの補助金はなく、島民からの税金だけで造られたため、倒産する会社が出るなど、大変な難工事でした。

大坂隧道改修之碑
大坂隧道と横間道路は阿坂島司の職を賭けた英断と八丈島各村村民の献身的夫役に依って明治四十年に開通したものであるが近時急激に交通輻輳して島民は拡幅舗装改修を渇望するに至り美濃支庁長は美濃部知事と諮り国の補助を得て昭和四十一年に着工し同四十三年竣工して輸載の便産業の振興等八丈島の飛躍的発展を促した

茲に碑を建て旧碑も復元して改修の功を悠久に記念する
昭和四十七年八月二十九日 大坂隧道之碑建立実行委員会 建之 八丈町長 (以下15団体代表者名列記を略)

説明と他の写真29枚は↓をご参照下さい。
https://ameblo.jp/tabicom/entry-12834685176.html




八丈島三日目 大坂トンネル展望台 tabi 投稿日: 2024年01月04日 20:08:07 No.6664 【返信】

シチズンのバス時計
無駄な装飾は排除され、見易さタフさ使い勝手の良さが三位一体となったロングライフデザイン。
防塵機能の高さから当時バスでも使われており、通称「バス時計」とも言われています。

大坂トンネル展望台
大賀郷と樫立を結ぶトンネルで、展望台から正面に望む八丈富士の美しさは、名山との声も。
眼下には、三原山の峰が横間海岸にせまり、海の上には八丈小島がその姿をくっきりと浮かび上がらせています。

勤王の志士で慶応2年(1866年)に八丈島へ配流された鹿島則文(かしまのりぶみ=鹿島神宮宮司家の第67代目、赦免された後、勅命により伊勢神宮の責任者を勤め、晩年は鹿島神宮大宮司に)は八丈八景を選定していますが、この近くから(逢坂橋あたりの旧道)の眺めを大坂夕照(おおさかせきしょう)として八景のひとつにしています。

説明と他の写真18枚は↓をご参照下さい。
https://ameblo.jp/tabicom/entry-12834564741.html




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