九州説の皆さんのための古代史掲示板


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真夏の平塚川添
オヤジッチ 投稿日:2018年08月11日 15:27 No.2166
猛暑の中、行ってきました。
小鳥たちも木陰に隠れて出てきません。
チュウサギと、アオサギだけがいましたが、どちらも大儀そうにして今居た。


Re: 真夏の平塚川添 粗忽屋 投稿日:2018年08月13日 08:58 No.2167
日本の夏は暑そうですね~~。
豪雨、猛暑、台風と、年々過激になる天候。
お元気でお過ごしですか。

小生、このたびバングラデシュに引っ越しました。
日本に負けずに高湿度の地です。


Re: 真夏の平塚川添 蔚山人 投稿日:2018年08月19日 17:53 No.2168
オヤジッチ様、今私も日本にいて、うだっています。暑いので、大型スーパーの常連客になっています。この時期は早く終わってほしいですね。

粗忽屋様、多分冬の前に、ネパールに行くことになると思います。地図上はバングラデシュのすぐ近くですが、実際はなかなか遠い国ですので、お会いしにちょっと寄るということは難しいでしょうね。しかしバングラを想像するだけで、蒸し暑くなります。頑張って下さい。


Re: 真夏の平塚川添 オヤジッチ 投稿日:2018年09月26日 08:15 No.2169
粗忽屋さん、蔚山人さん、紺○○は。
日本はやっと秋の気配が、朝晩はずいぶん涼しくなりました。
秋の吉野ヶ里2枚と恒例の特別展「よみがえる邪馬台国」のパンフをアップします。


Re: 真夏の平塚川添 オヤジッチ 投稿日:2018年09月26日 08:16 No.2170
粗忽屋さん、蔚山人さん、紺○○は。
日本はやっと秋の気配が、朝晩はずいぶん涼しくなりました。
秋の吉野ヶ里2枚と恒例の特別展「よみがえる邪馬台国」のパンフをアップします。


Re: 真夏の平塚川添 粗忽屋 投稿日:2018年09月27日 20:45 No.2171
ご無沙汰しております。
高湿度の中,時折雷雨に見舞われる鬱陶しい環境で暮らしております。

吉野ヶ里の彼岸花はすごい密度ですね。それにしても,
「邪馬台国って
 吉野ヶ里じゃなくて
 筑後にあったの?」・・・・って,いいですねぇ。
この際,高良山・高良大社がその中心だった,まで言ってしまいましょう(笑)。

邪馬台国と筑紫の王都「筑後」~これも中途半端なこと言わず,
どうせなら,倭国の王都「筑後」でいいのに。

10月7日のフォーラムには,纒向からあの慎重な橋本さんが来られるんですね。
実際に出土した柱穴列を勝手に2倍に水増ししておいて,「当時の建物遺構としては国内最大規模」とうそぶく“纒向人”たちの中では,比較的まともな方だと思います。


Re: 真夏の平塚川添 オヤジッチ 投稿日:2018年10月02日 11:10 No.2172
粗忽屋さん、こん○○は。
> この際,高良山・高良大社がその中心だった,まで
↑展示内容・説明からは「八女たい!」に近い(旧山門郡?)です。 (^-^)/

> 柱穴列を勝手に2倍に水増ししておいて
↑これは、聞捨てならないですね。(-"-;)


Re: 真夏の平塚川添 蔚山人 投稿日:2018年10月07日 17:28 No.2174
ご無沙汰しています。

まだしつこく日本にいます。日本は今まで住みやすいところでしたが、今年の日本は、土砂災害、洪水、地震、台風と何でもありの状態ですね。

北海道の札幌市清田区の液状化(地盤沈下)で多くの家が傾いているのは、悲しいものです。以前の地震でこの地域は同じような家屋の傾きを経験しているのに、不動産業者の宣伝に載せられ(騙され)家を購入した方々は、可哀想です。災害調査は専門の一つですのでいろいろ見てくると、このような人為的な要素からくるものが多く、私たち一人一人が意識して自分の住まいの環境を見直すしかないと肝に銘じているところです。

私は邪馬台国宮崎説ですので、吉野ケ里だ八女だというのは今までの常識の範囲での先入観で出されているもののようで、「八女て!」と言いたいところです。

八女は「邪馬(やめ)国」としの、倭国の一小国だったと思います。吉野ケ里は、邪馬台国の時代は人さらい国家として160人の生口を中国に送ってからは国が衰えていて、邪馬台国の時代は殆どその姿が消えつつある時代だったと思います。ポスターをみていると、何となく札幌の不動産業者の文句に踊らされているような雰囲気になってきます。


Re: 真夏の平塚川添 オヤジッチ 投稿日:2018年10月10日 10:16 No.2175
> 吉野ケ里は、邪馬台国の時代は人さらい国家として160人の生口を中国に送って
↑『倭國王帥升等獻生口百六十人』のクニということですか。
 “常識の範囲”と言うか、福岡の大方の学者の見解は、「“帥升”は伊都國の首長で“生口百六十人”は“奴國”との覇権争い(戦争)で獲た者」です。o(^-^)o

> 私は邪馬台国宮崎説ですので
 宮崎だと、西都原古墳群が見逃せないと思います。
 と言うか、あそこにあれだけの古墳群がある不思議が、邪馬台国に関係するとすると、東遷説になりますネ。

写真は、昨日撮った板付遺跡です。


Re: 真夏の平塚川添 蔚山人 投稿日:2018年10月13日 12:16 No.2176
オヤジッチ様

時々常識とは何だろうと考える時があります。

私が「ハングルの文字はひらがなから来たものですよ」というと、東大の教授辺りかられはパスパ文字から来ているようとか他の批判が来ると思います。また誰もそんなことを言った方もおられません。しかし一つ一つの基本形をみると、明らかにひらがなの形と音を使っていることが分かります。外国人に見せると、たちどころに納得して頂けます。ハングルの説明書の「訓民正音」の最後の最後の参考文献の項目に日本のひらがなと書かれています。皆さんここまで見られないようですが、世宗はこっそりと述べています。

”帥升”は伊都國の首長というのが常識のようですが、良くみるとこの王は「面土国」の方のようで、上古音や中古音では「メタ」と発音します。伊都国とは違っていると思われます。佐賀の吉野ケ里の東側の目達原あたりの地名だったとするのが自然です。上記を主張される方は、この「面土国」まで目が行っていない方々と思います。

弥生時代の代表的な墳墓形式は、甕棺です。この主な分布地は、博多から吉野ケ里にかけてのベルト地帯にあります。この中で小郡市を中心とする辺りには、戦いで亡くなったと思われる方の埋葬が多くみられます。このことは、小郡市あたりを中心に北と南で戦いが行われていたことを意味しています。

戦いは、領地の確保が目的ですが、捕虜にし労働力として奴隷のような状態で使う人間を確保することも目的だったと思います。その奴隷獲得の激しかった国が吉野ケ里と思われます。遺跡の中にある内郭をみると、溝の外側に防護柵が設けられており、奴隷を中に住まわせ外から監視する施設であったことは明白です。これも見逃されている点ですが、丁度160人位を住まわせるのに十分な大きさとなっています。

宮崎には、天照大神の伝承が数多く残されています。他の地域では、伝承があったとは聞いたことがありません。筑後でもそうです。瓜生野には、魏の100歩(145m)の弥生式墳丘墓があり、横には五十鈴川が流れています。勿論この地には天照大神の伝承が残されています。古くは伊勢という地名であったようです。

常識というのは、具体的に証明できるようなものでなければいけないと思います。「“帥升”は伊都國の首長」というのは、ただ口から出まかせを述べただけのものに過ぎないように思えます。

徐福の上陸地を山口県の土井が浜ですよといつも私は述べてきましたが、皆さんからは無視され、常識としては各地の伝承地がたくさんあり、どこが本当の上陸地からは分からないとなっています。この分からないというのが常識です。私が14世紀の中国の2つに地図に、長門の西側に「徐福祠」や「徐福相」が載っているのを示し、古代の人は土井が浜に上陸したと伝承してきていますとお伝えしても、今だかってその地図について言及する方がいません。不思議ですね。しかしこうゆうことが古代史の常識なのでしょう。


邪馬台国の真実とは 蔚山人 投稿日:2018年10月21日 15:35 No.2177
オヤジッチ様、粗忽屋様

季節が秋になり、紅葉がたよりがどこからか聞こえてくる日々になり、風も爽やかで生きていることの楽しさを味わえるこの時期が一番好きですね。福岡もどうですか、私も福岡にいれば基山などに登山する楽しみを味わっていると思います。

さて私は考古学全体を勉強する余裕などとてもありませんので、邪馬台国を中心にした歴史に集中しています。それで論争などをよく耳にするのですが、オヤジッチさんの言われた常識というものを忘れていることに、いつも愕然とします。

例えば、古代の中国の旅行記録では、A(出発地)~B~C~D(目的地)という場合、まず途中のA~B、B~C、C~Dのそれぞれで方向と距離が示さます。その後報告書の最後に最終的な出発地から目的地までの、方向と距離が示されます。このことはどこかの大学教授が発表された論文にあることですが。まあ当然といえば当然です。それから見ると、邪馬台国は出発地の帯方郡からみると、南に水行10日、陸行1月行った所にありますし、投馬国は水行2千余里の所にあると考えるのが、非常にスマートです。

どこかの学者が伊都国を中心に放射線状に旅程を考えていて、世間の皆さんはそれを崇め奉っていますが、まったくのナンセンスなものです。これでは歴史の真実が見えてくるはずもありません。考古学の先生方も人間ですので、間違いからは逃れることが出来ません。そこで私たちはその間違いを見つけ、本当はこうなのでしょうとお伝えしていくことが外野の使命と考えています。

「“帥升”は伊都國の首長で“生口百六十人”は“奴國”との覇権争い(戦争)で獲た者」ですでは、考古学の資料が泣きます。前原と博多の間で大規模な戦いが起きたという考古学的な証拠は、今のところないように思えます。常識がどこにあるのか、これからもオヤジッチさんや粗忽屋さんなどと一緒に考えて行きたいですね。




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