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水深と潮汐
蔚山人
投稿日:2018年04月15日 19:25
No.2159
数学が出来ない蔚山人としては、オヤジッチさんに笑われないように、数字のない文章での投稿をさせて下さい。
これも「魏志倭人伝」の話では話題になることがない事項ですが、水深測量と潮汐の知識というのがあります。秦や漢の時代は河川での船の通行が頻繁に行われてくるようになります。とりわけ楼船という大型船での航行が出てくるのですが、この時問題となるのが河の水深でした。安全に航行できなければ、どうしようもない訳です。
そこで船には、測深錘や水鉈という重い金具とひもを結び水面下に下ろして水深を測ります。測量の単位は、人が両手を広げた托(たく)で1.5mの長さです。単位長さのタッグをこの紐につけ、それで水深を測ります。測量の左辺が水を示すサンズイがあるのは、そこから測量が始まったことを示しています。
そして航海の発展と水深測量の結果で、潮の潮汐活動がだんだんと分かるようになってきました、河川からインド洋までという活動範囲の広がりが、逆にそれを要求するようになったのでしょう。
海が浅い場所では浅瀬・暗礁での座礁の危険性が大きく、また港への出入りには海の高さが関係しています。必然的に潮汐の知識が要求されてきます。前漢時代、枚乗(ばいじょう、-前140)は著書『七発』で、潮汐と月齢の関係を説明するような8月の望の大潮のことを述べています。
後漢になると、王充(おうじゅう、27-97)に潮汐の成因理論を作っています。著書の『論衡』の書虚篇に、「涛之起也、膸月盛哀」(潮の満ち退きは、月の満ち欠けによって大きかったり小さかったりするのであって、潮の満ち退きはいつも同じではない)ということ考えにいたり、月と潮汐の関係を科学的に示しています。紀元前1世紀には潮汐表も作られていました。これを使い船は潮をうまく利用をして航海をしていたようです。潮の流れに乗れれば、船を進めるのが容易ですし、港に入ることも容易になります。
魏志倭人伝の時代に、中国あるいは帯方郡から来た船は水深を測量し、帰路の安全を図り、潮の流れの変化をみて、航海の安全を図っていたと思われます。
Re: 水深と潮汐
蔚山人
投稿日:2018年04月18日 13:06
No.2160
オヤジッチ様
前回の投稿で、90kmとしたのは呼子から福岡までの距離でした、そこで6で割ると、1日15kmとなります。数学が出来なくなってきて、ただただお恥ずかしい限りです。
一日の行程
オヤジッチ
投稿日:2018年06月20日 10:56
No.2165
Re: 水深と潮汐 オヤジッチ 投稿日:2018年06月20日 10:41:44 No.2163
いつの間にか、2ヶ月たっちゃいました。m(__)m
ふと、帝国陸軍の歩兵の途歩=約86mと言うのを見つけました。
地形によって増減するでしょうが、平均値として時速にすると、5.16Km/hです。
卑弥呼の時代、一日に何時間使ったんでしょう。
各國の村々を通る時は威容を見せるためにゆっくり、あるいは休息をとったかもしれませんから、実移動時間は一日5時間程でしょうか。
5h×5.16km≒26kmです。
三雲公民館から日向峠越えで奴国の丘歴史資料館までが、25.5km。
良い線ですネ。\(^o^)/
画像は、2004年4月の三雲屋敷遺跡の現説風景とレジメ、今年2月の奴国の丘甕棺墓覆屋。
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