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三雲・井原遺跡
オヤジッチ 投稿日:2018年02月08日 17:34 No.2112
冬季特別展「伊都国の王都を探る」行ってきました。
展示は目新しいものはありませんでしたが、三雲遺跡群の変遷(弥生早期~古墳初頭)や、
まだ5分の1しか発掘調査していないが大量の楽浪系土器、硯などが出土している事で、「『郡使往來常所駐』が三雲番上遺跡で証明された」などが目玉でしょうか。


Re: 三雲・井原遺跡 粗忽屋 投稿日:2018年02月13日 20:28 No.2116
オヤジッチさん、

奴国も雪に埋もれて実に寒そうですね。
老婆心ながら、車の運転には十分ご注意ください。

上の伊都国王都の企画展のご紹介、ありがとうございます。
王墓の北500メートルほどにあって、楽浪~半島との強い繋がりが見える三雲番上遺跡は、
前原地域が「伊都国」であることをますます補強しているようです。
王宮に相当する建物はどこから出てくるんでしょうね。楽しみ。

2月18日(日)には、「伊都国人と文字」と題して、記念のフォーラムもあるようですが、
西谷さん・柳田さん・武末さんがどのような講演をするのか、
またシンポジウムがどう展開するのかも興味を引きます。
西谷さんは島根「田和山遺跡」の石製硯も例に引いて、弥生人の文字の理解の話になるのでしょう。

石製硯の展開した地域を「魏使の辿った道筋」と仮定して考えると、
水行20日(陸行なし!)の投馬国は、やはり出雲方面になりますかね(^_^)v。


Re: 三雲・井原遺跡 蔚山人 投稿日:2018年02月14日 08:59 No.2117
粗忽屋さん

2月18日の伊都文化会館での「伊都国人と文字」を紹介して頂き、有難うございます。伊都国は久しぶりですので、私も訪ねてみたいと考えています。10時からで先着順ということですので、早めに行きたいですね。

日本書紀では日本に紙が渡ってきたのは7世紀となっていますが、硯の出土から考えもっと前から伊都国には入ってきていたのではないかと考えています。その点パネラーがどのような話をされるか興味深いですね。硯が竹簡あるいは木簡だけに使われていたとは思えないのですが。


Re: 三雲・井原遺跡 オヤジッチ 投稿日:2018年02月15日 15:48 No.2120
> 日本書紀では日本に紙が渡ってきたのは7世紀となっていますが、
↑7世紀までには渡ってきたようです。

> 硯が竹簡あるいは木簡だけに使われていたとは思えないのですが。
↑神は高価なもので、中国でも紙が普及しはじめたのは魏晋の頃で、木簡・竹簡と併用されていたようです。卑弥呼の時代は中国で復旧し始めた頃ですネ
 硯は紙にも○簡にも使われますネ、日本では、文書木簡は、7世紀後半から奈良時代と平安時代の10世紀までを中心に使われたそうです。
 木簡ならば、硯、筆、刀子で推測されますけど、紙は漆紙くらいしか残りませんから発見されないだけかもしれません。

> その点パネラーがどのような話をされるか興味深いですね。
↑楽しみですネ、私は行けないので、ご報告下さい。フォーラムが冊子になるといいんですが。


Re: 三雲・井原遺跡 蔚山人 投稿日:2018年02月15日 20:50 No.2121
紀元後100年頃に完成された語源辞書「説文解字(せつもんかいじ)」では、「紙」の原義は絹糸を編んだものということだそうです。「絹」と「紙」は共通項があり、それが「桑」です。その樹皮は、紙の元の紙料を作る原料の一つだということです。

中国の紙は、インドネシアやオセアニアに昔からある「タパ」という植物を利用して作られていたもののようです。蔡倫が105年ごろ発明したといわれていますが、これは着物のぼろを砕いてまぜて、より紙をより強いものにしただけで改良者とした方が良さそうですね。敦煌などでは、前漢時代の紙が発見されていますので、かなり前からあったようです。

「日本書紀」には、610年に朝鮮の僧がその製法をもたらしたと言われていますが、中国では5世紀にはトイレットペーパーが作られている位ですから、その普及度からすると、日本にはかなり前に伝わっていたと考えるのが良いかも知れません。

オヤジッチさんが言われる、「紙」と「卑弥呼」の組み合わせがどうなるのか、興味深い所です。

紀元前3世紀の秦の始皇帝は、毎日60キロの竹簡に書かれていた書類を処理していたと伝えられていて、その大変さから前漢の時代から本格的な導入が図られたものでしょう。紀元前5世紀の墨子は、旅行の時竹簡の蔵書を荷車3台に納めて、旅をしたと伝えられていますが、皆さん竹簡の大変さにうんざりしていたと思います。


Re: 三雲・井原遺跡 粗忽屋 投稿日:2018年02月16日 01:02 No.2122
奥野正男先生によれば、魏志の脈絡が混乱して見える原因の一つに、木簡・竹簡に錯簡があったから、というのがあります。
皇帝の中央書庫に保管されていたオリジナル?は「紙」の書物だったかもしれませんが、普及版?は木簡・竹簡で、後者の方が考古学的には残りがよかった、ということなのでしょうね。
それがさらに時代が下って、錯簡のまま活字版に起こされてしまったとか。

「墨の現物」か「墨の製造法」は、用途からいって硯とセットで来たに違いないと考えられます。
木簡・竹簡の存在は、オヤジッチさんの言われるように刀子の存在から仮想できますが、
これが「紙」となると、ブツが出ないだけに皆目わかりませんね。

先日話題に上った「伝信」の場合は、想像ですが、通行手形のような木札のイメージです。
それとも紙に書いた証書か小冊子だったのでしょうか。
後者であれば、まさに現代のパスポートですね。
はたして最初に「紙」を見た“日本人”は、弥生時代人か古墳時代人か・・・・・。




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