九州説の皆さんのための古代史掲示板
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無題 名無しのリーク 投稿日:2018年02月20日 15:29:47 No.2131 【返信】
香川県ルーちゃん餃子のフジフーヅはバイトにパワハラの末指切断の大けがを負わせた犯罪企業




またまた硯発見 オヤジッチ 投稿日:2018年02月17日 09:48:52 No.2123 【返信】
古墳時代のすずりが比恵遺跡群で発見されました。
 記事では、「福岡市は16日、比恵遺跡群(博多区博多駅南)から3世紀後半の古墳時代とみられる石製すずりの一部が出土したと発表した。」とありますが、「邪馬台国時代に奴国での文字の使用を示す貴重な発見」としています。
 出土と発見の違いは、「2016年7~8月の事務所建設に伴う発掘で見つかり、専門家に調査を依頼して判明した。」からで、2016年7~8月に出土した石製品が専門家によって硯と判明したので、発見と言うことですネ。
「古墳時代前期(3世紀後半)のすずり出土は国内で初めてという。
市の担当者は「奴国が、文字文化もある重要な場所だったことを示す史料になる」と話した。」とのことです。


Re: またまた硯発見 オヤジッチ 投稿日:2018年02月17日 09:53:05 No.2124
この「専門家」って、もしかして柳田先生?(^.^)
蔚山人さん、もし聞けたら聞いてみてください。
Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月17日 16:30:58 No.2125
柳田さんとはまだ文化財課におられた時に一度県庁でお話したことがありますが、向こうは覚えていないでしょう。

もし聞けたら聞いてみます。
Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月19日 09:35:26 No.2126
昨日、伊都文化会館の第4回伊都国フォーラム「伊都国人(びと)と文字」を見てきました。ホールの5割方が埋まっていましたので、400人位の方が見えられたのでしょう。

17日にオヤジッチさんが紹介された,比恵遺跡で発見された硯の実物がホールの入り口に展示してあり、改めて小さなもの(3~4cm角)だなと確認したしだいです。1辺に溝が平行に掘られており、講師の説明では切る予定でいれたものだろうということでした。

西谷正さん、柳田康雄さん、武末純一さんの3名が基調講演を行い、後4人ほどがシンポジウムからパネラーとして参加されていました。全体の印象としては、統一的なまとまりのあるものではなく、それぞれ好きなことを言っていたという印象です。論点のいくつかを紹介します。

(1)金印の読み方については、糸島市の角さん1名が「漢の倭の奴の国」と呼ばれ、後の方は「漢の委奴(いと)国」と呼ぶ方がふさわしいと主張されていました。

(2)粗忽屋さんが紹介された封泥の写真も示され、紐などを縛った個所に粘土を付け、それにハンコとしての封泥を押しけるもので、どんなものかよく理解できました。竹簡などの中身を見せないためにそうしたとも言われているようです。ただこの出土は楽浪郡の辺りだけに出土し、南朝鮮や倭国には無いようです。

(3)硯が筑前町で発見されたのは、柳田さんが倉庫を調べていて従来砥石と考えたれていたものを、その厚さが薄いことから硯と断定してとのことです。日本全国で砥石と呼ばれているものを再検討すれば、硯がもっと見つかるのではないかと、柳田氏は考えているとのことです。比恵遺跡の硯は、柳田氏はタッチされていないようです。

(4)三雲・井原遺跡が国史跡に指定されたが、指定個所は遺跡の全体からは0.5%にも満たない範囲でしかなく、今後の調査でその範囲が広がる可能性が大きいが、住宅があるためそれが出来ない難しさがある。指定の時期が、その重要性から考えて遅いのではないかということを地元のパネラーの方々は感じておられるようです。それは伊都国から日本の弥生時代がスタートしたと考えられる非常に重要な地であるからです。伊都国は、鏡を見ても分かるように、隣の奴国よりはるかに上の地位にあるものだと考えられる。金印は伊都国の王に対して与えられたものだと考えるのが合理的であると柳田氏は主張されていました。

(5)文字の理解度は、弥生時代は非常に低いもの、あるいは伊都国だけに限定されたもの程度だったのではないかとのことです。その代わり竹簡、筆、削刀等が朝鮮の方で出土しており、伊都国などに楽浪郡の人間が住んでおりそれらを使っていたのではないか。

(6)倭国で「貨泉」や「五シュ銭」が出土するのは、海岸近くであり、交易のなかでそれが使われたのではないかとのことでした。そしてその海村をまとめて海村世界が形成され、これが連合し国が出来上がっていったのではないかとの意見がありました。

他にもいろいろあるでしょうが、こんなものです。ただ柳田氏と他の講師との意見が合わないところがあり、私としては柳田氏を応援したい気持ちにさせれらました。済みません。こんなものでご勘弁下さい。


Re: またまた硯発見 粗忽屋 投稿日:2018年02月19日 13:13:15 No.2127
蔚山人さん

寒い中、伊都国遠征、ご苦労様でした。
聴講者もけっこう来たのですね。

柳田さんは、橿考研(当時)の寺澤さんと組んで「東遷説」を推すようになってから、
今や「伊都国全権大使」の趣になってますね。
昔は「平原なんて三角縁も持てない田舎大名」と、ヤマトに対して卑下していたのが、
平原の再調査報告書のあたりから豹変?して、伊都国を重視する今の主張は嘘のようです。

> 金印は伊都国の王に対して与えられたものだと考えるのが合理的

・・・とまで言うのはどうなのかなぁ・・・。
あまりに調子よすぎるので、ほかの方と折り合いがつかないのかな・・・(笑)?
伊都国ファンの私としては、いけいけドンドン、と後押しするのですけど!(^^)!。

ところで、初期渡来弥生人などに対して、最近になって「海民」とか「海村」
という表現を見るようになった気がするのですが、これ、昔からありました?
「水田農耕のノウハウも持った漁労従事者」くらいのニュアンスと思うのですが。

Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月20日 09:41:07 No.2128
シンポジウムで海辺で生活している人の話がありました。武末さんだったと思いますが、内陸部の村と海辺の村から出土する石包丁の数の割合が、5:1であり、海辺の人々のその程度に稲作に従事していたのだろうということでした。粗忽屋さんが言われた「水田農耕のノウハウも持った漁労従事者」という表現がぴったりでした。

海辺の話が出てきたのは、弥生文化は海から伝播されたという当たり前のことが、最近になり再確認されてきた結果だと思います。
Re: またまた硯発見 オヤジッチ 投稿日:2018年02月20日 10:45:11 No.2129
蔚山人さん、ご報告ありがとうございました。
今朝の西日本新聞に「文字文化の始まりを討論」と言う記事で、フォーラムがあったことを紹介していましたが、詳しい内容ではありませんし、蔚山人さんのご報告のような雰囲気を感じるようなものではありません。
元々は「三雲・井原(いわら)遺跡」の国史跡指定を記念する伊都国フォーラムだったのですが、硯と金印、「海民」とか「海村」で盛り上がったのでしょうか。
硯については、西日本新聞では『武末教授は「外交交渉を行っていた伊都国ですずりが出るのは当然だと思っていた」と述べた。』と記してました。
金印については、結構昔から「委奴」をイトと読む説がありますが、伊都国が貰った金印が奴国領の志賀島から出土した理由が説明されていません。
私は「漢委奴國王」=「王朝(漢)+民族(倭)+部族(奴)+爵位(國王)」説ですけど、むかし面白いと思ったのは、「倭奴」=「アイ(ワイ)ヌ」です。(^^♪
「海民」とか「海村」については別スレッドを立てた方が良いかもしれませんが、私は縄文人(在地海人)が半島からの難民を渡海させ、縄文人には何の価値もない海浜後背地の湿原に住まわせた(水田農耕地を与えた)のではないか、渡来人はそれに感謝しと、首長として尊敬した、それが支石墓の被葬者が縄文人である理由ではないか、などと夢想しています。§^。^§

写真は、昨日(19日)の北内閣です。冷たい霧雨が降ってました。


Re: またまた硯発見 蔚山人 投稿日:2018年02月20日 12:37:57 No.2130
オヤジッチ様

話された基本的なテーマは「硯」と「金印」で、この2つでシンポジウムが動いていたような感じです。

文字については、土器に「口+見」のような字が書かれており、これが何だという話になり、書かれていた壺が水鏡になっていたものではないかという意見に半分の方がうなずかれていたように思いますが、文字については片隅のテーマにされて余り話の分量としては大したことはなかったようでした。

硯については、武末教授の「外交交渉を行っていた伊都国ですずりが出るのは当然だと思っていた」ということに、パネラー全員が納得されていたようです。それで硯とはどういうものか、中国の例が紹介され、柳田氏が従来砥石として処理されていたものも見直しをすれば、結構見つかるのではないかという話につながった訳です。

金印については志賀島で出土したとなっているが、実は伊都国(前原)出の出土だったのではないかという話も出てきました。しかしこれは、雰囲気的にはそれはないだろうという雰囲気を感じました。何故志賀島での出土かの話はありませんでした。伊都国で「硯」や「大型の後漢鏡」が出土していることから、伊都国が文化の中心であったのではないかとの意見が賛同者が多かったように思います。

縄文人と朝鮮半島からの難民の組み合わせについては、なかったと思います。ただ楽浪郡の人々が玄界灘や日本海側に住みついていて、伊都国を通して交流があったのではとの話はありました。

雰囲気については、議事録的なものを作らないと、表現することは難しいですね。私の能力では、居眠りをコラえること位が、精いっぱいのところでしたので、聞き逃したものもあったかも知れません。最初の西谷さんの話はあまり面白くなかったので、半分以上寝ていました。



三雲・井原遺跡 オヤジッチ 投稿日:2018年02月08日 17:34:59 No.2112 【返信】
冬季特別展「伊都国の王都を探る」行ってきました。
展示は目新しいものはありませんでしたが、三雲遺跡群の変遷(弥生早期~古墳初頭)や、
まだ5分の1しか発掘調査していないが大量の楽浪系土器、硯などが出土している事で、「『郡使往來常所駐』が三雲番上遺跡で証明された」などが目玉でしょうか。


Re: 三雲・井原遺跡 粗忽屋 投稿日:2018年02月13日 20:28:26 No.2116
オヤジッチさん、

奴国も雪に埋もれて実に寒そうですね。
老婆心ながら、車の運転には十分ご注意ください。

上の伊都国王都の企画展のご紹介、ありがとうございます。
王墓の北500メートルほどにあって、楽浪~半島との強い繋がりが見える三雲番上遺跡は、
前原地域が「伊都国」であることをますます補強しているようです。
王宮に相当する建物はどこから出てくるんでしょうね。楽しみ。

2月18日(日)には、「伊都国人と文字」と題して、記念のフォーラムもあるようですが、
西谷さん・柳田さん・武末さんがどのような講演をするのか、
またシンポジウムがどう展開するのかも興味を引きます。
西谷さんは島根「田和山遺跡」の石製硯も例に引いて、弥生人の文字の理解の話になるのでしょう。

石製硯の展開した地域を「魏使の辿った道筋」と仮定して考えると、
水行20日(陸行なし!)の投馬国は、やはり出雲方面になりますかね(^_^)v。
Re: 三雲・井原遺跡 蔚山人 投稿日:2018年02月14日 08:59:55 No.2117
粗忽屋さん

2月18日の伊都文化会館での「伊都国人と文字」を紹介して頂き、有難うございます。伊都国は久しぶりですので、私も訪ねてみたいと考えています。10時からで先着順ということですので、早めに行きたいですね。

日本書紀では日本に紙が渡ってきたのは7世紀となっていますが、硯の出土から考えもっと前から伊都国には入ってきていたのではないかと考えています。その点パネラーがどのような話をされるか興味深いですね。硯が竹簡あるいは木簡だけに使われていたとは思えないのですが。
Re: 三雲・井原遺跡 オヤジッチ 投稿日:2018年02月15日 15:48:47 No.2120
> 日本書紀では日本に紙が渡ってきたのは7世紀となっていますが、
↑7世紀までには渡ってきたようです。

> 硯が竹簡あるいは木簡だけに使われていたとは思えないのですが。
↑神は高価なもので、中国でも紙が普及しはじめたのは魏晋の頃で、木簡・竹簡と併用されていたようです。卑弥呼の時代は中国で復旧し始めた頃ですネ
 硯は紙にも○簡にも使われますネ、日本では、文書木簡は、7世紀後半から奈良時代と平安時代の10世紀までを中心に使われたそうです。
 木簡ならば、硯、筆、刀子で推測されますけど、紙は漆紙くらいしか残りませんから発見されないだけかもしれません。

> その点パネラーがどのような話をされるか興味深いですね。
↑楽しみですネ、私は行けないので、ご報告下さい。フォーラムが冊子になるといいんですが。


Re: 三雲・井原遺跡 蔚山人 投稿日:2018年02月15日 20:50:48 No.2121
紀元後100年頃に完成された語源辞書「説文解字(せつもんかいじ)」では、「紙」の原義は絹糸を編んだものということだそうです。「絹」と「紙」は共通項があり、それが「桑」です。その樹皮は、紙の元の紙料を作る原料の一つだということです。

中国の紙は、インドネシアやオセアニアに昔からある「タパ」という植物を利用して作られていたもののようです。蔡倫が105年ごろ発明したといわれていますが、これは着物のぼろを砕いてまぜて、より紙をより強いものにしただけで改良者とした方が良さそうですね。敦煌などでは、前漢時代の紙が発見されていますので、かなり前からあったようです。

「日本書紀」には、610年に朝鮮の僧がその製法をもたらしたと言われていますが、中国では5世紀にはトイレットペーパーが作られている位ですから、その普及度からすると、日本にはかなり前に伝わっていたと考えるのが良いかも知れません。

オヤジッチさんが言われる、「紙」と「卑弥呼」の組み合わせがどうなるのか、興味深い所です。

紀元前3世紀の秦の始皇帝は、毎日60キロの竹簡に書かれていた書類を処理していたと伝えられていて、その大変さから前漢の時代から本格的な導入が図られたものでしょう。紀元前5世紀の墨子は、旅行の時竹簡の蔵書を荷車3台に納めて、旅をしたと伝えられていますが、皆さん竹簡の大変さにうんざりしていたと思います。
Re: 三雲・井原遺跡 粗忽屋 投稿日:2018年02月16日 01:02:10 No.2122
奥野正男先生によれば、魏志の脈絡が混乱して見える原因の一つに、木簡・竹簡に錯簡があったから、というのがあります。
皇帝の中央書庫に保管されていたオリジナル?は「紙」の書物だったかもしれませんが、普及版?は木簡・竹簡で、後者の方が考古学的には残りがよかった、ということなのでしょうね。
それがさらに時代が下って、錯簡のまま活字版に起こされてしまったとか。

「墨の現物」か「墨の製造法」は、用途からいって硯とセットで来たに違いないと考えられます。
木簡・竹簡の存在は、オヤジッチさんの言われるように刀子の存在から仮想できますが、
これが「紙」となると、ブツが出ないだけに皆目わかりませんね。

先日話題に上った「伝信」の場合は、想像ですが、通行手形のような木札のイメージです。
それとも紙に書いた証書か小冊子だったのでしょうか。
後者であれば、まさに現代のパスポートですね。
はたして最初に「紙」を見た“日本人”は、弥生時代人か古墳時代人か・・・・・。



無題 オヤジッチ 投稿日:2018年02月14日 17:07:01 No.2118 【返信】
春一番に吹かれて、平塚川添遺跡公園に行きました。
食事中の遺跡の主、アオサギと常連のツグミ、新顔のキセキレイを撮ってきました。


Re: 無題 オヤジッチ 投稿日:2018年02月14日 17:10:50 No.2119
遺跡近くで面白いバスが小郡方面に、筑前さんが見たら大喜び。§^。^§




秦・漢から発送された封泥の印面は? 粗忽屋 投稿日:2018年01月28日 20:47:39 No.2094 【返信】
オヤジッチさん、
テーマが変わったので、別スレにしました。

> 開封は邪馬臺國であれば、邪馬臺國で(封泥が)出土する可能性がありますが、どんな印文でしょうか。
>「皇帝」印でしょうか。玉璽とは別に封印用の印があったのでしょうか。

とても面白い疑問ですね。私も興味津々です。

根拠はありませんが、玉璽は何らかの証紙に押したか、ひょっとすると純粋に象徴的な存在で実際に使われることはなかったかもしれません。
実務にかかわる封泥用の印は別にあったような気がします。
それはどんな印面であったのか・・・・・?

「封泥 出土」などでググってみると、実際に出土した封泥の画像がいろいろ出てきますね。
でも郡や県など地方の管理役人レベルのものがほとんどのようで、中央官庁から地方へ送ったと思われるもの、まして皇帝直属の機関からと見えるものは見つかりませんでした。
実際に存在した数からいっても、圧倒的に地方発の方が多いでしょうね。

東京国立博物館の所蔵品の中に、宮廷の財政・物品管理などを行う「少府」の封泥や、皇室の軽食?を担当する「湯官」付属の「湯官飲監」の封泥があり、これが一番“中央寄り”でしょうか。

ただ卑弥呼さんのような蛮族の長に物を送る際に、皇帝印が押されたのかというと、疑問です。。。。
物を与える指示を出したのが皇帝であっても、押された印はそれを担当する官庁の印であったように思えます。
中国での封泥研究書もかなりあるようですので、きっとその中にはいわゆる“王爾”に相当する送付印について書かれたものもあるでしょう。
こういうテーマは、蔚山人さんがいろいろご存じではないかと思うのですが、いかがでしょうか?



Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年01月29日 21:18:22 No.2096
粗忽屋さん

お元気で何よりです。

古代中国は旅立つにも印、金を引き出すのも印が必要で、印で官庁の仕事が処理されていたようですね。残念ながら、その印や封泥については十分な知識がありません。
Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年01月30日 11:22:55 No.2098
> 玉璽は何らかの証紙に押したか、ひょっとすると純粋に象徴的な存在で実際に使われることはなかったかもしれません。
↑Wikipediaに以下の記事がありました。
 伝国璽(でんこくじ)は、中国の歴代王朝および皇帝に代々受け継がれてきた玉璽(皇帝用の印)のこと。
秦の始皇帝より以前は、周王朝37代にわたって保持されてきた九鼎が帝権の象徴であり、それをもつものがすなわち天子とされた。周が秦に滅ぼされたとき、秦は九鼎を持ち帰ろうとしたが、混乱のさなか泗水の底に沈んで失われたという。秦朝は新たに玉璽を刻し、これを帝権の象徴とした。
やはり象徴的なものだったようですね。

いずれにしても、この時代の印は封泥用の印で、
書類は木簡を結えた(冊=束ねた木簡)紐の結び目を粘土で固めた(封=四角(寸)い粘土(土土))に押した(封印)もの(→柵封)ですネ。
ということで、『王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送“文書賜遺之物”詣女王、不得差錯』とありますが、文書(送状)と賜遺之物(贈物)に相違がないかを搜露(確認)したと言うことですが、そのために、送状(木簡)と行李(送箱)を開けたのか、封泥が改竄されていないか、開封されていないかを確認しただけなのか。
いろいろ疑問がわいてきて、キリがないですネ。(-_-;)



Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年01月30日 18:00:26 No.2099
ここでは送り状と賜遺の物との関係を述べられていますが、実は文書には「伝書」と呼ばれるものも含まれていたと思われます。

当時役所からの公用旅行の場合、「伝信」と呼ばれるある種の旅券のようなものが発行され、それが行く先々で示され、これにより身分に応じた乗り物や宿泊、食事の提供を保証されます。

この伝信には、公用旅行をする人物の身分、姓名、発給の年月日、用務、車馬(船)や従者などの交通手段と条件、伝信の番号、発給した人物名、相手先への命令等が示されています。帯方郡からの使者は、伊都国において荷物の検査を受ける際これを示し、贈り物を含む用件を相手先に示し、その確認を行ったことは、間違いないでしょうね。

伊都国の役人は、直ちに各地に連絡の使者を出し、使者の旅行に差支えがないような処置がとられたと思われます。何となくその時の風景が目に浮かぶようです。使者は、間違いなく卑弥呼の都には行っています。
Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 粗忽屋 投稿日:2018年01月31日 10:20:00 No.2100
いやいや、さすが蔚山人さん、いろんなことをご存知ですね。

「伝信」をググってみたら、汲古書院というマニアックなところから「中国古代国家と情報伝達―秦漢簡牘の研究―(藤田 勝久)」という専門研究書がヒットしました。
目次を見ると、間違いなく通行証~旅券のような存在であったことが分かりました。

最近の伊都国での石製「硯」の出土を見ると、弥生後期になった時には、「伝信」を理解する役人が伊都国側にもいたのは間違いないでしょうね。
研究心旺盛な柳田康雄さんが、同様の石製硯を朝倉郡筑前町で2例みつけたことから、文字を解する人のネットワークが甘木に向けて伸びていたのも見えてきますね。
こういうものが、魏の使者の行路を示してくれると面白くなりそうです。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月01日 09:10:42 No.2101
蔚山人さん、粗忽屋さん、こん○○は。

「伝信」初めて知りました。勉強になります。
私は、「伝信」で以下の「伝信」氏か引っかかりませんでした。
琉球の研究資料として知られる、中山伝信録:《「中山」は琉球の異称》中国の地誌。6巻。徐葆光(じょほうこう)著。1721年成立。前年に清の外交使節として訪れた琉球の見聞を、皇帝への報告書としてまとめたもの。
仰る「伝信」は通行手形ですか、帯方郡使が持っていたのは当然、太守劉夏が発行したものですよね。
『郡使往來』する時に、諸所でこれを示すわけですか。とすると、“冊”ではなく“札”で封泥はありませんネ。それと、帰りにも使うでしょうから、倭国には残りませんのでしょうか。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月02日 16:09:36 No.2102
粗忽屋さん、オヤジッチさん

筑前町で硯が2個発見されたことは、非常に重要なことでしょうね。

伊都国でチェックされた贈り物は、伊都国歴史博物館にあるようなランドセルのような背負子で運ばれたと思います。弥生時代には一般的な運搬手段でした。伊都国の役人は、直ぐに運搬に必要な人間を揃えると同時に、途中のどの国で使者の一行に食事を提供することができるか、計画したと思います。というのは、人が担いで持参できる食料は最大5日間分しかありません。これに贈り物の負担が来るのですから、3日間程度分の食料しか担ぐことが出来ないと思われます。

私は、使者は伊都国から奴国を通った後は、烏奴国(おなくに、大野城)、支惟国(きいこく、基山)、巴利国(はぎこく、把木)、躬臣国(くしこく、玖珠(日田))という順序で南に下って行ったと考えます。そうすると、奴国で食事をした後は、巴利国あたりで次の食料を手に入れる必要が出てくる可能性があります。その意味では、筑前町のあたりにある程度の役所的な施設が置かれていた可能性がありそうですね。それで手続き等が出来る役人がいて、硯が使われていた可能性があるかも知れません。

伝書は、1枚の木札に裏表に必要事項が記載されたものです。これは中国では出土していますが、日本では出土していないので、使者が最後まで持っていて帯方郡までそれを持ち帰ったと思われます。そこに書かれたものは現在の日本のパスポートの記載にも通じるものです。

「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係諸官に要請する。日本国外務大臣」
Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月03日 10:12:24 No.2104
蔚山人さん、粗忽屋さん、こん○○は。

> 筑前町で硯が2個発見されたことは、非常に重要なことでしょうね。
↑1月30日から冬季企画展(三雲・井原、国史跡指定記念展)があっているそうで(今日の西本新聞掲載ー正式サイトには載っていないー)筑前町の2個のすずりも展示されたいるそうです。月曜は休館なので火曜日に行ってきます。

> 伊都国歴史博物館にあるようなランドセルのような背負子
↑何処にありました?数十回(資料館時代から)行ってますが、見落としてます。(-_-;)

> 烏奴国(おなくに、大野城)
↑大野城は白村江の後、665年に大野山に造られた山城、大野城市になるまえは、奴国の丘(春日市)と同じ筑紫郡でした。律令国としては筑前国夜須郡大野村です。國名とするにはチョッと苦しい。

> 支惟国(きいこく、基山)、巴利国(はぎこく、把木)、躬臣国(くしこく、玖珠(日田))という順序で南に下って行った
↑基山→杷木→玖珠(≠日田)は南ではなく、東ですが?


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月04日 21:18:36 No.2105
オヤジッチ様

伊都国歴史博物館には、背負子が2個納められています。この2個は以前公開されていた時に拝見しましたが、通常は痛みの問題があり倉庫内に保管し、公開は殆どされていないようです。見れない方が多いと思います。パンフレットか何かには載っていると思いますが。

当時の国というのは、現在での町あるいは村程度のものであったと思います。地名とは小さなものから、少しずつ広がって行くもので、烏奴国(おなくに、大野城)のその一つではなかったかと考えています。

躬臣国(くしこく、玖珠(日田))は、仰られるように東側ですが、次の邪馬国(やめこく、八女)には筑後川を下って降りてきますのでルートは南側に戻ります。そして鬼奴国(きなこく、玉杵奴国は玉名の旧名)などに至ります。最終的にシマ国(都城の旧名)に到達しますが、全体の行程は九州を南に下ります。

当時の旅行記録では、途中のあれやこれやをまとめて、出発地から最終到着地までの行程、方向を最後に記述することになっていました。陳寿は、魏志倭人伝の中でこれを記述しています。当然南の方向ですし、水行10日(帯方郡~マツラ国)、陸行1月(マツラ国~都城)となる訳です。

Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月06日 10:23:38 No.2106
> 次の邪馬国(やめこく、八女)には筑後川を下って・・・南側に
↑方向としては“西南西”ですし、八女は邪馬臺國。§^。^§

> そして鬼奴国(きなこく、玉杵奴国は玉名の旧名)などに至ります。
↑『三国史記』新羅本紀にある多婆那国を玉名とする説があるそうですが、鬼奴国(きなこく)というのは?

> シマ国都城の旧名)に到達します。
↑シマの地名は、万寿3年(1026年) に大宰大監の平季基が日本最大の荘園となる「島津荘」を開発空だと思います。それ以前の地名は?
 私は『斯馬(シマ)國』は後の志摩郡だと思います。

今日、伊都国歴史博物館(冬季企画展)に行こうと思っていたんですが、雪で日向峠、糸島峠が全面通行止めだそうです。西区辺りも渋滞しそうなので、止めときます。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月06日 10:28:16 No.2107
> 「島津荘」を開発空だと思います。
↑「「島津荘」からだと思います。」の間違い。m(__)m
Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月06日 13:10:29 No.2108
オヤジッチさん

日向峠を越えるのは大変そうですね。私もここ数日凍えて過ごしています。早くこの季節が過ぎると良いですね。

まず玉名は、日本書紀には「玉杵奴(たまきな)」と書かれています。それで、鬼奴国(きなこく)として良いのではないかと考えています。

島津についてですが、「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬条には、日向国に「島津駅」があり、最近の研究では都城郡元町付近に比定されています。このことから、この付近の地名が「島津」と呼ばれていたことが確認されています。10世紀のことです。

万寿年間(1024~27)に大宰府の役人だった平季基(たいらのすえもと)が、島津の地を開発し、関白藤原頼道(ふじわらのよりみち)に寄進して、島津荘が成立します。これは上記の時期より3世紀後のことです。

この斯馬(しま)国から九州の北部に向かって、下記のような国々が順番通りにならんでいます。「魏志倭人伝」の記述は正確です。上記や下記の地名からも魏の使者が通ったルートが分かります。
 
巳百支(いわし)国 = 岩瀬
伊邪(いや)国 = 宮崎(イザナギ、イザナミの根拠地、伊勢の地名から発生)
都支(たし)国  = 佐土原町田島(たじま)(「延喜式」当磨(たいま)駅、間は港という意味)

斯馬(しま)国は糸島ではないと思います。
Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月07日 11:10:05 No.2109
> 斯馬(しま)国は糸島ではないと思います。
↑はい、糸島は1896年4月1日、元は怡土郡と志摩郡、郡制に基づき両郡を合併させて糸島郡となった野で、『斯馬(シマ)國』は後の志摩郡と思います。
 ただ、『自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳』とあって、“其餘旁國”は邪馬臺國の北ではないことになるんですよね。
 “自女王國以北”を「“末盧國”から女王國(邪馬臺國)までの行程で通過した」意味に解釈することもできると(*^_^*)

> 魏の使者が通ったルートが分かります。
↑従って、使者が通ったのは『末盧國→伊都國→奴國→不彌國』となります。


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月07日 16:02:16 No.2110
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」の文は、まず「自女王國以北其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶不可得詳」に分けられることは皆さん認めておられるようです。

これによると、「戸数や道里を略載した国々は、女王国の北側にあります」と読めます。そうすると末羅国、伊都国、奴国、不弥国は、女王国の北にあり、その南に女王国があると簡単に理解できます。

次の文章は、その4ヶ国と女王国以外の国(旁國)は、良く分からないという意味です。遠い国なのでしょう。次にで始まる21ヶ国については国名が分かっているので、この旁國には当然入らないということになります。そうするとこの21ヶ国は女王国の範囲内にあります。「魏志倭人伝」では、奴国が女王国の尽きる境界であると、はっきり書かれています。

この文章は、非常に分かりやすいものです。そこでオヤジッチさんの「 “自女王國以北”を「“末盧國”から女王國(邪馬臺國)までの行程で通過した」意味に解釈することもできると」いう解釈が生きてくる訳です。しかし女王国の中にある邪馬台国は、この奴国の南側にあることになります。そこから延々と歩いて、やっと九州を南に下がり到達できるところに探るしかないと思います。このことを忘れては、魏使者のルートは永遠に見つからないと思います。

「魏志倭人伝」は、初心者でも分かるように文章が構成されています。シンプルに見るということが重要です。
Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月08日 16:37:53 No.2111
蔚山人さん、こん○○は。

> 奴国から南へ延々と歩いて、やっと九州を南に下がり到達できるところ
↑だと、西都市が高確率、考古学的(遺跡)にみると西都原古墳群、文献的(倭人条)には『此女王境界所盡其南有狗奴國』も熊(球磨)襲(曽於)が南にありますしネ。§^。^§


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月09日 17:14:50 No.2113
> 奴国が女王国の尽きる境界であると、はっきり書かれています。
> しかし女王国の中にある邪馬台国は、この奴国の南側にあることになります。
↑上述二つの奴国が同じ国だとすると、邪馬台国は女王国の南外にあることになり、悩ましいところです。

“自女王國以北”を「“末盧國”から女王國(邪馬臺國)までの行程で通過した」意味に解釈すれば、『其餘旁國』は通らなかった國ということで、行路の東西(or左右)に有る又は離れた國になり、行路の“奴國”と最後の“奴國”は別國となります。
例『華奴蘇奴國』=神崎國(郡・国邑は吉野ヶ里)、『斯馬國』=志摩國(郡・国邑は一の町遺跡)、最後の『奴國』=玉名國(郡・国邑は前田遺跡)苦しい(-_-;)

※板付遺跡でちょっと一服


Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? 蔚山人 投稿日:2018年02月10日 10:06:31 No.2114
華奴蘇奴國が神崎あるいは吉野ケ里遺跡ではないかと、オヤジッチさん初め多くの方が持たれているようですが。これは違うと思います。吉野ケ里遺跡の地は、倭の面土国あるいは「米多国」が良いと思います。

この面土国については、『後漢書東夷伝』に西暦107年に、倭国王師升が、中国に使者を送りますが、それが「安帝永初元年、倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う。」の記事があります。もう一つは『翰苑』の「後漢書曰く、安帝永初元年、倭面上国王帥升至るあり」というものです。

これは倭国の師升という国王が、奴隷や戦争での捕虜などを160人も中国まで輸送し献じるという非常に重要な記事です。奴隷は当然脱走しようとしますから、同数近くの護衛と官吏を含めて、最低300人の人々が幾艘もの船に乗り、中国に向かったものと思われます。大変な規模の事業でした。

ここで重要なことは、生口が奴隷を意味するもので、戦いの戦利品としての捕虜が中心になっていたと思われることです。それでは、戦いの後これらの捕虜はどこに収容されて移送される時を待っていたのでしょう。私は、これは吉野ヶ里遺跡の環濠にみえるような、内郭内の施設ではなかったかと思います。

吉野ヶ里遺跡の内郭の堀(濠)と板柵の関係をみると、堀の外側に板柵があります。これは明らかに外から内部の人間が脱出しないように監視する収容所の役割を果たしていると見られることです。門はそれを厳しくチェックするものでしょう。中に捕虜を収容し、青銅器やいろいろなものを製作させ、武器を持った兵士が四六時中見張りをするというものです。そのため堀の外側に他の人々の住居などがあります。

この国王は「倭の面土」というところにいました。この「面土」というのは、上古音や中古音では「メタ」と発音するのが一般的です。ではこれはどこにあったのでしょうか。代表的な箇所は、次の2ヶ所です。

● 佐賀県神埼郡吉野ヶ里吉田目達原(めたばる:現在自衛隊の目達原駐屯地があります。)
● 佐賀県三養基郡米多(めた)郷

どちらも佐賀県にあり、吉野ヶ里遺跡に近い場所です。数日前自衛隊の攻撃ヘリが墜落したのもこの地域です。ここが本拠地だったと思われます。吉野ヶ里遺跡では、先ほど述べた防御柵が壕の外側に設けられるという異常な環濠がありますので、ここを面土国として良いと思います。

筑志米多国造は、この佐賀県の三養基郡米多郷付近を支配していて、『先代旧事本紀』では、第13代成務天皇の時代から都紀女加命(つきめかのみこと)が国造を代々この地で継いでいったと言われています。目達原古墳群にはこの都紀女加命の墓があり、吉野ヶ里そのものが滅びた後、この地を支配していったようです。この命は男性であるが、名前に「女」という字を含んでおり、ちょっと考えさせられるところがあります。

華奴蘇奴國は、私は「金の蘇の国」という意味で、阿蘇山の北側の外輪山の内部の平野であったと考えています。ここには「阿蘇黄土」というベンガラを産出する場所で、弥生時代の鉄が素掘りで豊富に取れた場所です。
Re: 秦・漢から発送された封泥の印面は? オヤジッチ 投稿日:2018年02月12日 10:39:07 No.2115
蔚山人さん、こん○○は。

詳しいレス、勉強になります。m(__)m
> この面土国については、『後漢書東夷伝』に西暦107年に、倭国王師升が、中国に使者を送りますが、それが「安帝永初元年、倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う。」の記事があります。もう一つは『翰苑』の「後漢書曰く、安帝永初元年、倭面上国王帥升至るあり」というものです。
↑“面土”=“邪馬臺”=“ヤマト”と単純に考える学者も多くいますネ。

> これは倭国の師升という国王が、奴隷や戦争での捕虜などを160人も中国まで輸送し献じるという非常に重要な記事です。
↑福岡の多くの学者は、この時の戦争は伊都國vs奴国の戦いで、伊都國が覇権を得たと考えています。私もそう思います。伊都国には『世有王』ですから。§^。^§
 「敗れた奴国の首長層が金印を志賀島に隠して、近畿に亡命政権を創った」と言うのはオヤジッチ面白話。(*^_^*)

> 吉野ヶ里遺跡では、先ほど述べた防御柵が壕の外側に設けられるという異常な環濠がありますので、ここを面土国として良いと思います。
↑面土国かどうかは別にして、何十回も見ています(年パス持ってます)が異常だとは感じませんでした。防御柵と言うか土塁の内側に環濠があるのは普通だと思っていました。

> 『先代旧事本紀』では、第13代成務天皇の時代から都紀女加命(つきめかのみこと)が国造を代々この地で継いでいったと言われています。
↑都紀女加(つきめか、都紀女加王)は、“第15代応神天皇の曾孫(三世孫)”で、筑志米多国造の始祖とされる。『日本書紀』『古事記』に記載はない。(ウィキペディア)と言うことで、だとすると“5世紀”以後ですが。

> 目達原古墳群にはこの都紀女加命の墓があり、吉野ヶ里そのものが滅びた後、この地を支配していったようです。
↑考古学名「上のびゅう塚古墳(かみのびゅうづかこふん)」ですね。昭和18年(1943年)に宮内省(現・宮内庁)によって都紀女加王の墓に治定されたそうですネ。前方後円墳で、前方部を西に向ける。墳丘長は49メートルで“5世紀”の築造と推定される、墳丘表面からは埴輪・葺石が見つかっているほか、丘周囲に周溝が巡らされたことが明らかとなっている、とのことですネ。(ウィキペディア)
 それと、吉野ヶ里が滅びた後、5基の「前方後方墳」(九州最大を含む)が造られたことをどう思われますか。私は、以前(北墳丘墓)からこの地域(華奴蘇奴國)の奥都城だったのではないかと。(その可能性もある、程度ですが)

> 華奴蘇奴國は、私は「金の蘇の国」という意味で、阿蘇山の北側の外輪山の内部の平野であったと考えています。ここには「阿蘇黄土」というベンガラを産出する場所で、弥生時代の鉄が素掘りで豊富に取れた場所です。
↑なるほど、そういうのも面白いですネ。
 私は、その鉄が“狗奴國(狗古智卑狗=菊池彦)”の武器だったと思います。

写真は、今朝の奴国の丘です。





無題 名無しのリーク 投稿日:2018年01月30日 10:39:01 No.2097 【返信】
香川県ルーちゃん餃子のフジフーヅはバイトにパワハラの末指切断の大けがを負わせた犯罪企業




お久しぶりです 蔚山人 投稿日:2018年01月22日 14:49:48 No.2087 【返信】
皆さま

筑前さん、郭公さん、オヤジッチさん、粗忽屋さん、懐かしい名前をここで発見し、嬉しく思います。お元気で何よりです。

私は、いろいろなことがあり、ネパールから戻り今は福岡の自宅で暮らしています。またどこかに行くかも知れませんが、当分は福岡の暮らしを楽しみたいと考えています。

帰国当初は、筑前さんの掲示板、それに続いてこの掲示板がおかしくなっていましたので、投稿は控えていました。その件が一段落したようで、ちょっと安心しました。なかなか外に出かける機会も少ないのですが、そういった折の話や、何か面白いアイデアがあれば、また投稿させて下さい。


Re: お久しぶりです オヤジッチ 投稿日:2018年01月23日 09:31:39 No.2088
蔚山人さん、無事のお帰りそして、新年おめでとうございます。
ご投稿お待ちしています。
福岡と言えば、板付ということで、正月4日の写真。


Re: お久しぶりです 蔚山人 投稿日:2018年01月29日 21:11:30 No.2095
オヤジッチさん

お元気で何よりです。福岡は食べ物がおいしいので、もうここから離れたくない気持ちになりますが、この年になりまた転職です。すぐに東京での生活が再開しますし、海外にも行きます。

この写真の飛行機に乗り、板付遺跡を十分に見学出来ずに旅立ちますが、何才になっても仕事ができることは有り難く、海外の面白さも楽しみたいと考えています。



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