九州説の皆さんのための古代史掲示板
[トップに戻る] [ワード検索] [フォトアルバム] [管理用] [▼掲示板作るならRara掲示板]

お名前
Eメール
タイトル
URL
画像添付
削除キー ( 記事を削除する際に使用します )
文字色

魏志倭人伝の【正しい】訳 wajin128 投稿日:2017年10月18日 13:22:29 No.2042 【返信】
魏志倭人伝の【正しい】訳
 
【南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月】
 
1、投馬國 から 東南の邪馬壹國の都 (つ) まで 水行十日 陸行一月で至る。
2、ここ(之)に女王は住む。
--------------------
九州に都 (みやこ) は、歴史的にも考古学的にも存在しません。
魏志倭人伝に記載されている【都】とは地名のことです。
【都】と書いて【つ】と読み、おそらく【津】と思われます。
 
【津】には 「多くの人が集まる港」 と言う意味が有ります。
【邪馬壹】は【やまと】と読みます。
【壹】の旁 (音符) は【豆】です、したがって【登】【澄】と同様に【と】と発音します。
 
【邪馬壹】を【やまいち】と発音したとすれば【邪馬一】と記載したことでしょう。
魏志倭人伝では【壹】と【一】を併用しています。
これは【壹】と【一】の音が異る為と考えられます。
【壹】を【と】と発音する理由を、参考の為に以下に記します。
--------------------
偏旁の種類
形声文字では、類型的な意味を表す偏旁を意符(義符、形旁とも)、音声を表す偏旁を音符(声符、声旁とも)といいます。

漢字を分類・検索するために代表的な偏旁を利用する方法があり、これに使われる偏旁を部首といいます。
部首には意符が使われることが多く、部首に使われた偏旁の数は、初めて部首法を用いた『説文解字』で 540、清の『康熙字典』で 214 で、現在の日本の漢和辞典では『康熙字典』の 214 部を改良したものを使用しています。
 
中国の『新華字典』や『現代漢語詞典』などでは 189 の部首が建てられています。
伝統的に偏旁は、配置される位置によって次のように分けられています。

偏 (へん): 左側に位置する
旁 (つくり): 右側に位置する
冠 (かんむり): 上側に位置する。
脚 (あし): 下側の構成要素
構 (かまえ): 外側に囲むように位置する。
垂 (たれ): 上部から左側を覆うように位置する。
繞 (にょう): 左側から下側をとりまいて位置する。
これらは構成要素であるとともに、配置の位置をも示すものです。
 
しかし、構成要素として「木」は「杯」のように偏になったり、「床」のように覆われていたり、「柔」のように下にあったり、「朱」のように中心にあったりするものがあり、配置位置と必ず結びつくものではありません。
 
また配置位置を表すものとしても 7 種類しかないので偏旁の配置構造を十分に説明できません。
このため現在の中国ではこのような分類方法はとられていません。
 
また漢字のほとんどが形声文字であり、それは通常、左側の偏や上側の冠を意符、右側や下側の旁を音符とするが、宋代以降、旁にあらわされている字音こそが基本義を表しているのだとする「右文説」が唱えられました。
 
20世紀に入り、スウェーデンの言語学者ベルンハルド・カールグレンや日本の藤堂明保が上古音の声母の分類による単語家族の語源分析を行っています。
--------------------
【韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接】

1、韓は帯方の南に在り、
2、東西は海を以って限りと為す。

【馬韓在西】
【辰韓在馬韓之東】

東西とは、東の辰韓、そして西の馬韓を指します。
したがって1、2、の訳は次の様になります。

韓は半島の南端に在る。
東の辰韓も西の馬韓も、北以外はすべて海に面している。
3、南の倭人と接触す。
 
南の倭人と接触 (出会う)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/wajin128/36992016.html
 





まず先に【言葉】有りき ? wajin128 投稿日:2017年10月18日 11:44:34 No.2041 【返信】
まず先に【言葉】有りき ?

魏志倭人伝、後漢書、隋書では【邪馬壹】【邪馬臺】【邪靡堆】【邪摩惟】などと様々な文字が使用されています。
ーーーーー
この理由を説明します。
古代中国人は文字をどうやって作ったのでしょうか。
文字以前に有ったのは【言葉】です。
 
この【言葉】に文字をあてはめて作ったのです。
漢字は【偏・旁・冠・脚・構・垂・繞】で構成されています。
この中で【旁】は【音符】を、そして【旁】以外は漢字の意味 (義符) を表現しています。
--------------------
たとえば【ヒ】の音に【皮】を当てています。
この【皮】の声符に【衣】の義符を合せて【被】の文字を作っています。
したがって【皮】の声符には意味が有りません。
 
【被】の意味は【布団】という意味がありますが【衣 (おおいかぶせる)】が義符になっています。
例えば【壹】の旁は【登】【澄】と同様に【豆】ですから、読みは【dou4 (ト)】です。
 
そこで【邪馬壹】は【ya ma to】と読みます。
しかし宋以降は、こうしたルールが崩れて漢字の読みが変化しています。
漢字の読みと、その漢字の【旁】の音が80%近くが同音です。
 
この事は、かつて【旁】が音符だった事の証明と言えるでしょう。
言葉が先にあり、その言葉に合わせて漢字(文字)は作られています。
たえば【馬】を【ma】【ba】【me】と呼ぶ地域が在ります。
 
また韓では【靡】を【mi】と発音しますが【邪馬壹】を【ya mi to】と思って【邪靡堆】の漢字をあてたと思われます。
また【邪摩惟】の【惟】は【隹】の形声文字です。
 
【隹】の声符は【zhui1 (ト)】です、したがって【邪摩惟】の読みは【ヤマト】になります。
地域あるいは政権によって、漢字の音は変化しています。
漢字の音が変化した時にはやむを得ず、元の読みを保つために他の漢字を使用しました。
 
こうしたことを【仮借 (当て字)】といいます。
単純に【壹】を【臺】の誤写と決め付けるのは問題です。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/wajin128/36991928.html
 





魏志倭人伝の【計其道里】の訳について ? wajin128 投稿日:2017年10月18日 08:17:55 No.2040 【返信】
魏志倭人伝の【計其道里】の訳について ?
 
【計其道里 當在會稽東冶之東】
この文章を、安本氏は次のように訳しています。
--------------------
その (倭國との) 道里を計 (ってみ) ると、まさに 會稽 (郡) の東冶 (県、福建省福州付近) の東にあたる。
--------------------
【計其道里】とは【其の距離を計る】と言う意味です。
ところが彼の説明によれば【會稽東冶の東にあたる】になっています。
これでは【距離 (道里)】では無く【方角】と訳しています。
 
たとえば【東京から大阪までの距離は、西にあたる】と一緒です。
しかも【まさに 會稽の東冶の東にあたる】では【會稽の東冶】と【倭】は陸続きという事になってしまいます。
こうしたトンチンカンな訳を行うとは、あきれる他ありません。
 





【皆倭種】の意味について ? wajin128 投稿日:2017年10月17日 22:36:45 No.2039 【返信】
【皆倭種】の意味について ?
 
【女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種】
 
女王國から東北へ海を渡って千餘里に又國有り。
全て倭人と同種族。
--------------------
女王國の航海の基点 (ハブ港) を伊都國とすれば、現在の博多湾付近から東北に向かった事になります。
倭人伝では【狗邪韓國】から【末盧國】間の三海峡の全てを【千餘里】と記載されています。
 
すると使者は博多湾から、山口県の南岸に渡った付近に 「倭種」 の國は在ると語っているようです。
【復有國 皆倭種】とは、女王國と同様の國が幾つもあり、その國は【倭人と同種族】という意味になります。
 
また【倭人】を魏志倭人伝の冒頭で、次のように定義しています。
--------------------
【倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑】
【舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國】
--------------------
上の文章によれば【倭人】とは【九州島に住む、三十國の人々】を指す事になります。
【九州に住む三十國の人々】と【本州 (中国地方) に住む複数の國の人々】とは同一の種族言うことになります。
 
【種】とはどう言う意味でしょう。

中国の辞典に【種】の意味は【具有共同起源和共同遺伝特征的人群】日本語に訳すと【共同の起源と共同の特徴をもち遺伝する】ですが、そのヒントは【魏志韓伝】に記載されています。
【韓、在帶方之南】
【有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓】

韓には三種類の人々が居る。
一に馬韓と言い、二に辰韓と言い、三に弁韓と言う

そして【馬韓人】と【辰韓人】とは、言語も習慣も異なるとあります。
また【弁韓と辰韓とは雑居】とあります。
この例から【倭種】とは【倭人と同種 】と言うことですから、言語・習慣が【倭人】と同じ人々と言うことでしょう。
 
私は倭人とは九州人、そして倭種とは本州人と思っています。
そして【弁韓と辰韓とは雑居】という事は、國が領土を現わすとしたら、この意味は不明です。
したがって当時の 「國」 とは 「領土」 ではなく 「異なる種族」 つまり人種を指すと見て良いでしょう。
 
魏志倭人伝の【方】について ?
『三國志』魏書 明帝紀
【其表高祖,光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採】
 
光武帝の陵墓の四面は各百歩。
民が耕したり牧を採取しないよう管理する。

『三國志』魏書 王母丘諸葛鄧鍾傳 第二十八
【四面合圍】
四方を囲う。
ーーーーー
「方」 を 「四角形の一辺」 という人が居ます。
魏書に 「面」 は 「一辺」 とあります。
辺を現わす 「数詞」 が二つあるハズがありません。
したがって 「方」 を 「一辺」 と考えるのは間違いです。
  
https://blogs.yahoo.co.jp/wajin128/36991168.html
 





【皆倭種】とは ? wajin128 投稿日:2017年10月17日 21:11:53 No.2038 【返信】
【皆倭種】とは ?
 
【女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種】
 
女王國より東北へ渡海千餘里の地に、女王國と同じ國が有る。
全て倭 (やまと) と同じ種族。
--------------------
韓国では【倭】を【ya ma to (ヤマト)】と読みます。
【皆倭種】とは【皆、倭 (やまと) と同種族】と言う意味です。
考古学的に見ても、九州と中国地方の人々に差異は認められず、骨格や文化そしてDNAからも、同種の人々 (弥生人) と認定されています。
 
それにもかかわらず、九州と中国地方の人々とを分けるとすれば、支配範囲の違い以外にありません。
つまり弥生人の中で九州に住む人々を【倭 (やまと)】と呼び、それ以外を【倭種 (やまとと同種族)】と記載したと考えられます。
 
古代中国では、中国と深い関係を持つ弥生人を 「倭人 (北九州人)」 そして 「倭人以外を倭種」 と記載したようです。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/wajin128/36990993.html
 





須玖タカウタ遺跡発掘調査成果展」講演会 オヤジッチ 投稿日:2017年10月02日 15:29:40 No.1962 【返信】
郭公さん、こん○○は。

一昨日、奴国の丘で柳田康雄の講座がありました。
「須玖タカウタ遺跡発掘調査成果展」の講演会です。
「平原鏡国産説」には言及しませんでしたが、「舶載と言われていた青銅製品に国産のものがあることが証明された」といってました。
それは良いんですが、さらに『漢倭奴国王』は「カンのイト国王」と読む、
また、「ヤマト王権=玄界灘からの東遷」だって。(;一_一)

展示の方ですが、一番興味をひかれたのは、再現実験(銅矛鋳造)で使われた鋳型用の土、焼いても収縮しない配合を用いてます。
踏み返しで鏡を鋳造すると、土鋳型が収縮すらので小さくなると以前よく言われてましたが、そうじゃないかも。


Re: 須玖タカウタ遺跡発掘調査成果展」講演会 オヤジッチ 投稿日:2017年10月03日 11:14:14 No.1965
> 再現実験(銅矛鋳造)で使われた鋳型用の土、焼いても収縮しない配合を用いてます。
> 踏み返しで鏡を鋳造すると、土鋳型が収縮すらので小さくなると以前よく言われてましたが、そうじゃないかも。
↑焼成実験の写真をアップします。


Re: 須玖タカウタ遺跡発掘調査成果展」講演会 オヤジッチ 投稿日:2017年10月03日 17:12:36 No.1968
柳田先生が国産として挙げた鏡

Re: 須玖タカウタ遺跡発掘調査成果展」講演会 粗忽屋 投稿日:2017年10月04日 01:28:15 No.1971
オヤジッチさん、
毎度ご無沙汰です。

> 踏み返しで鏡を鋳造すると、土鋳型が収縮するので小さくなると以前よく言われてましたが、そうじゃないかも。

東アジアの方では、
> 焼成しても収縮しない粘土を使った。
> つまり、「踏み返し」をしても本の鏡と同じ大きさの鏡が得られると言うことです。
   ・・・・と書いておられますが、

踏み返し鏡が元の鏡よりも小さくなるのは、
 1.土製鋳型が加熱乾燥時に収縮する(=入れ物の収縮)
 2.銅合金の「湯」が型の中で固まり、さらに室温まで冷却される過程で収縮する(=中身の収縮)

この2つの原因が考えられますので、「1」だけが解消しても、踏み返し鏡の縮小は避けられないのではないですか。
同じ鋳型を複数回使った「同笵鏡」同士では大きさは変わらないといえますが。
(これも、合金の比率が変われば収縮率が変わり、大きさも変わるのかな)

「2」の冷却・収縮によって、大型青銅鏡の「魔鏡効果」が生じる、という研究発表もありますね。
(松田政夫1994、頃安貞利2009,2010など)

Re: 須玖タカウタ遺跡発掘調査成果展」講演会 オヤジッチ 投稿日:2017年10月04日 10:36:07 No.1974
> 銅合金の「湯」が型の中で固まり、さらに室温まで冷却される過程で収縮する(=中身の収縮)
↑はい、青銅の収縮率は1/63、20㎝鏡で0.3175㎝=3.175㎜縮小ですネ。
 ちなみに、今回の鋳造実験(銅戈40㌢?)注湯は、地金:銅80%、錫12.5%、鉛7.5%、溶解温度1,123℃だそうです。
 『「踏み返し」をしても本の鏡と同じ大きさの鏡が得られる』というのは間違いですネ。
 「土鋳型を使えば「踏み返し」で、同じ大きさの鏡が大量生産できる」と言うのが正しいですネ。
 で今、フト思ったんですが、八咫鏡は平原の超大型鏡の原鏡で、平原の5枚はこれを「踏み返し」た物だったりしたら、面白いんですけどネ。

> 青銅鏡の「魔鏡効果」
↑鏡面を磨くことで背面の模様による応力で極微細な凹凸が出来るためだとされています。


Re: 須玖タカウタ遺跡発掘調査成果展」講演会 オヤジッチ 投稿日:2017年10月12日 09:59:43 No.2011
10月7日に遠藤喜代志先生の講演がありました。
印象に残った話を以下に、
1、土鋳型の土は、天然材(配合は無加工)と人口材(人為的配合)があり、今回の再現土鋳型は春日市にある粘土、焼土に木粉を混ぜ、焼成しても収縮しない土を使ったとのことです。(収縮すると鋳型として使えない)
2、全国で発掘されている土鋳型のうち、春日市と筑前町のものだけが、土鋳型でそれ以外は粘土鋳型だそうです。

3、全国から出土(2000年)している320点ほどの鋳型(約200が春日市)の内、表裏対のものは10点、5組しかない。石鋳型は租形を作るもの、あるいは石の土を組合わせたのかもしれない。
4、石鋳型は、自分の経験から、剥離剤のメンテナンスを行えば、二十数回使用できる。
5、春日市から出土の石鋳型材は矢部川の上流のある。
以上、「私は考古学者じゃないので」と謙遜されていた割には、とても面白かったです。

今まで考えたことがなかったことで、
 復元:形状、材質を主題とする。(3Dプリンタによる複製など)
 再現:行程、環境を主題とする。(今回の鋳造実験など)
↑この違いを教えていただきました。


Re: 須玖タカウタ遺跡発掘調査成果展」講演会 粗忽屋 投稿日:2017年10月17日 01:08:43 No.2037
オヤジッチさん、

遠藤喜代志先生の講演につき、紹介ありがとうございます。

添付していただいた写真は、その時の資料ですよね。
余談ですが、とても興味深い発見がありました。

東奈良遺跡出土の銅戈の鋳型、写真を原寸大にしてよく見ると銅戈の「内」(=茎(なかご))に「×印」がありますね。
荒神谷遺跡の銅剣の大多数の茎に、鋳造後、タガネで「×印」が掘り込んであり、その意味についていろいろ考察されているのは知っていましたが、東奈良遺跡の鋳型のことは知りませんでした。
こちらの「×印」は、「鋳型の方に」掘り込んでありますので、出来上がりの凹凸は荒神谷とは逆になりますね。
どこかで茎に凸の×印を持つ銅戈(大阪湾型?)が出てくれば面白いんですが。



【水陸行 60日(二か月)】の意味について ? wajin128 投稿日:2017年10月16日 21:52:30 No.2036 【返信】
【水陸行 60日(二か月)】の意味について ?
 
【悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也】
上の文章は大変重要です。
わかり易く説明する為に、文章を区切って訳す事にします。
---------------------
【故鄭重賜汝好物也】
汝の好む物を鄭重に賜う也。

【汝の好む物を、鄭重に賜う】と言う事は、魏の方から卑彌呼に対して 「褒美として欲しい物が有ったら述べなさい」 と声をかけられ、これに答えて卑彌呼は 「この品を下さい(銅鏡百枚)」 と申し出たと思われます。
---------------------
【悉可以示汝國中人 使知國家哀汝】
使は (贈物の) 悉くを汝の國中の人々に示し、
以って汝への感謝の気持ち (哀) を示す。
---------------------
【南至投馬國 水行二十日】
【南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月】

【水行二十日】【水行十日 陸行一月】は【奴國】【投馬國】【邪馬壹國】の人々に、感謝の証としての贈物を、示す為の日数と考えています。
また【土地山險 多深林 道路如禽鹿徑】【草木茂盛 行不見前人】と言った厳しい旅を強いられたのも、贈物 を各國の人々に示す為だったと考えます。

およそ一日に示した倭人の戸数(世帯数)は【二千戸以上 (140,000戸÷60日)】になります。
---------------------
【使知國家哀汝】
魏國は汝の働きに感謝 (哀) している。
使(郡の使者)は汝の國民に、これを知らす。

** 【哀】は、臣下に対する最大級の感謝の言葉 **
---------------------
この時の使者となって倭國を訪問したのは【梯儁】です。
【梯儁】は【正始元年(240年)】に倭國を訪問して、女王に金印と詔書、そして贈物を届けています。

『 晉書 』四夷傳(東夷条)倭人、に次のような記述があります。
【漢末 倭人亂 攻伐不定 乃立女子爲王 名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶】

上の文章で注目して頂きたいのは【其後貢聘不絶】です。
---------------------
その後も【貢聘】は絶える事なし
---------------------
【貢聘】とは、友邦として朝貢に招くと言う意味です。
つまり 卑彌呼 は魏の同盟國の王として、招かれ朝貢した事になります。
中国の辞書に【聘】は 「友邦の訪問を指す」 とあります。
 
https://blogs.yahoo.co.jp/wajin128/36989503.html





1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | >>
記事No: 削除キー:

Powered by Rara掲示板
- 掲示板管理者へ連絡 - 新着投稿をメールで受け取る -