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旧バコロド空港麻薬事件 ( No.4974 )
日時: 2010年06月23日 05:26
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net
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アイコンフィリピンの恐ろしさを痛感致す様な事件でありまさにトロイ型事件の全貌です。この事件のみではありません他にトロイ事件は幾つも御座います。<br><br>現在のバコロドシライ空港ができる遥か前の1994年にバコロド空港で仕掛けられて起きた事件です。<br><br>事件の概要:愛知県名古屋市の会社員鈴木英司(すずきひでし)被告は1994年4月12日(現地時間)、フィリピンネグロス島、西ネグロス州の州都バコロド市のバコロド空港での手荷物検査で、菓子箱入りの大麻1.9kg(1.54kg?)を所持していたことが発覚、空港警察に逮捕された。<br> 鈴木被告はバコロド市内でレストランを経営していた日本人男性A氏と日本への陶土や石材輸出のビジネスを手掛けていた。鈴木被告はA氏から立替金250万円を返済するという話でバコロドまで来たが、A氏は返済を拒んだ。逮捕前夜には「日本で訴訟を起こす」「やれるならやってみろ」と口論になっていた。<br> 数日後、「サインすれば釈放される」とA氏に言われるがまま、鈴木被告は内容も理解できなかった英語の書類にサインした。その書類は麻薬所持の罪を全面的に認める訴状だった。 <br><br>一審1994年12月7日 バコロド地裁 デロスサントス裁判官 死刑判決<br>二審2003年11月12日(までに) フィリピン最高裁 裁判長不明 一審破棄 無期刑 <br><br>拘置先メトロマニラ圏 モンテンルパ市内にある刑務所<br><br>裁判焦点:鈴木英司被告は日本人男性A氏の陰謀説を訴えた。<br> 口論となった4月11日の夜、鈴木被告は路上で「ピンキー」と名乗る女性に声を掛けられ、食事をした後、モーテルに泊まった。ピンキーは翌日午前1時頃に帰ったが、鈴木被告が午前7時に空港に行くとターミナル入口で待ち受けており、お土産として菓子箱を手渡した。鈴木被告は菓子箱の中に大麻が入っていることを知らなかった。<br> 逮捕後、鈴木被告は麻薬捜査局の捜査官に身柄を引き渡され、その後A氏の家に連れて行かれた。A氏は「300万円出せば助かる」と持ちかけたが鈴木被告は拒否したことも法廷で語った。しかし鈴木被告側は「ピンキー」の存在を法廷で証明できず、陰謀説を裏付ける証拠も提出できなかった。<br> 鈴木被告の弁護人は11回に及んだ公判の中で、英語も現地語も理解できない被告への取り調べが通訳抜きで行われ、しかも空港で警察官が鈴木被告の同意なしに菓子箱を開けるなど捜査に違法性があったと主張したが、いずれも認められなかった。<br> 判決でデロスサントス裁判官は「被告が大麻を所持していた事実は疑いなく、捜査も適正だった」とし、死刑を言い渡した。<br><br> 鈴木被告はその後も無罪を主張。最高裁では無期刑(朝日のみ禁固40年と報道)に減軽された。一審判決から9年近く判決が出ていなかったため、アムネスティ・インターナショナルなどから抗議声明が出ていた。 <br><br> 鈴木被告は逮捕直後、日本大使館に3回電話をしたが、コレクトコールを理由に断られた。大使館職員が接見したのは、逮捕から半年以上も後で、すでに一審判決は下りていた。アメリカやイギリスでは、既に自国民の逮捕者には48時間以内に接見するよう義務付けてられていた。<br> この事件は、地元のラジオ局や新聞社も「えん罪」の観点から異例の報道キャンペーンを展開するなど、現地でも大きな注目を集めた。<br> 1995年11月、鈴木被告を逮捕、捜査を指揮したバコロド警察麻薬捜査局長のアルカンタラ自身が、麻薬所持容疑で逮捕されたのだ。その後、アルカンタラは地元紙の取材に「鈴木の事件は菓子箱を渡した女性らによるでっち上げだった」と証言。日本のテレビ局の取材でもそれを認めた。<br> 1996年5月には、超党派の国会議員132人が「鈴木さんを救う国会議員の会」を発足。比の最高裁に公正な審理を求める嘆願書を提出した。<br><br> フィリピンでは1976年を最後に死刑執行はなく、1987年にアキノ大統領によって死刑が廃止された。しかし、1994年1月にラモス大統領によって死刑が復活した。このときに改正された麻薬取締法では、750g以上の大麻不法所持の量刑は20年以上の投獄あるいは死刑。750g未満では6月以上の投獄となった。覚せい剤は200g以上、ヘロインとコカインは40g以上の所持で死刑の対象となる。なお、2001年にアロヨ大統領によって死刑は凍結され、2006年6月に死刑は再び廃止された。<br> 外務省調べによると、海外に無期刑(終身刑を含む)の日本人受刑者は19人(2005年1月時点)。<br><br>鈴木服役囚は逮捕後、マニラ首都圏のモンテンルパ刑務所に収監されていた。2005年暮れに監視が厳しい重犯罪者用収容房(MAX)から、中間の準重犯罪者用収容房(MID)に移監された。<br> 鈴木服役囚は2006年3月、現地のフィリピン人女性(25)と結婚した。女性とは2000年12月、携帯電話の番号間違いメールで知り合った。女性はその後妊娠、出産。産まれた男児が4歳になるのを機に結婚した。フィリピンでは賄賂さえ払えば携帯電話を所有することができた。またフィリピン司法省は囚人と妻や恋人の刑務所内での同宿を月に2回認めており、専用の部屋も用意されている。<br> 2008年、フィリピン政府が恩赦を検討したが却下。2009年11月に日本政府が正式に釈放を要請、2010年4月にアロヨ大統領が恩赦を決定した。2010年6月21日、逮捕から16年ぶりに釈放された。

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Re: 旧バコロド空港麻薬事件 ( No.4976 )
日時: 2010年06月23日 06:00
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net
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アイコンここで謂う日本人男性A氏とは誰だろう!! 気になる仕掛け人は対フィリピン人ではなく在留邦人だった事になる、バコロド市人口44万人でネグロス島内で最も大きい都市となる、別名サトウキビの州都とも謂われ、島内の半分にあたる大半の土地がトゥボブキッド(サトウキビ畑)である、ここでネグロス島の概要を幾分説明して起きます。<br>特に島の西側にあたる西ネグロス州内に多くの面積を持ち、有力な力を持つ製糖工場が島内の北部域に集中し、東ネグロス州圏内にはバイスとバヤワンにしかない。<br>元々日本とも馴染みが深くその為か年配の老人は片言の日本語を話す人が今でもいるがおそらく80歳程度に達してる、当時ネグロス島北部のサガエ市を中心に港側から山中深い地区へ森林鉄道を伸ばしていた、昔の森林鉄道を敷き設する為に当時雇った老人が今でも幾人か存在していたなど第二次大戦で山中奥深く逃げた日本兵以外にも日本人には関わりが深かった。<br><br>さて話は戻るがバコロドで暮らす日本人はそれなりにいるが、もちろんガイサノモールを初め街中を走り回ると日本人向けレストランを数件は見かける、仕掛け人と思われる日本人男性A氏は今何処にいるのだろうか?<br>バコロド市内北側のバタ地区~南側プンタタイタイに至るまで邦人はそれなりにいる今日です。

Re: 旧バコロド空港麻薬事件 ( No.4977 )
日時: 2010年06月23日 06:33
名前: Cavite [ 返信 ]
参照: http://philippin.net
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アイコン<P align="left"><FONT color="#0000ff">&gt;&gt; 口論となった4月11日の夜、鈴木被告は路上で「ピンキー」と名乗る女性に声を掛けられ、食事をした後、モーテルに泊まった。ピンキーは翌日午前1時頃に帰ったが、鈴木被告が午前7時に空港に行くとターミナル入口で待ち受けており、お土産として菓子箱を手渡した。</FONT><BR><br><BR><br><FONT color="#000000">日本人A氏とピンキーは繋がっていたとも思えます、フィリピン流に考えれば仲間としてか、金を打診に誘ったとも考えられます、やはり最終的に男の遊び心を巧み突かれた気がします、今日でも日本から態々フィリピンへ行って女遊びを繰り返し繰り返ししている方も沢山おりますあが各々が何時かは当たりやすい、あたる確立が高い気もします。<BR><br><BR><br>おそらく捜査を指揮した<U>バコロド警察麻薬捜査局長のアルカンタラも日本人A氏と何等か事前合意があったとも疑われます</U>、地元在留邦人であれば仕掛けができたのかも知れません、普通に考えれば鈴木さんが万一300万円を支払えばそれなりに分ける裏約束が見え隠れがします。<BR><br><BR><br>意地になる気持ちも理解できますが、やはり異国ですから意地を張っても落ちる所まで落ちて行く事がよく解った事件でした大変勉強になりました。おそらく日本にいる鈴木さんを呼ぶ前から日本人A氏は準備していたのかも疑える内容でした。<BR><br><BR><br>でも人生の中でもっとも悔やんだ時間を今後どの様に向けられるのかが気になります。 どうぞこれからは今までの分を少しでも取り戻し安心できる暮らしができることを祈っております、長い間のお勤め心からご苦労様でした。<BR><br><BR><br>最後に人の事件じゃありません、私がフィリピン国内を回り様々な場所を訪ねた時も、決まって在留邦人がおります、見栄えの良い人から事業をされている方まで沢山おります、しかし、大半の事業者は失敗している方が殆どです、まして日本から毎日の様に向う国際空港地側にあるレストランなら別ですが、訪れる日本人も疎らな地方レストランで維持するなど非常に難しく感じます、しかし、経験者でなければその裏事情までは見えず、素直に何とか食えている様に見えて仕舞う者でした。<BR><br><BR><br>こう謂う部分からも落とし穴は待ち構えている様にも感じます、何時わが身か解りません、いろんな形で経験しないと先が読めないのがフィリピン共和国で最もおそろしいトロイ型事件です、これが余程酷い事件になりますと奥さんだった事も珍しくはありません、先を読めなければ第2第3の被害者へなって仕舞います、ほんとうに恐ろしい類の事件です。<BR><br><BR><br>邦人を嵌める、嵌めこむには殆ど女性が絡み油断をします、その女性は殆ど肉体で接してくる共通点が御座います、接した後に気を緩める男性心理を良く掴んだ行動をされたあげくに嵌められます、それが結婚であったり、通常のフィリピン人には手にできない不動産を得た後だったり、フィリピンから見た多額預貯金の所持を見たあとだったり、途中から牙を向けられるのでトロイ型と謂います。<BR><br>もちろん日本で住むフィリピン人が永住ビザ取得後に子と一緒に逃げる行為もトロイ型の典型的な行為です。 <BR><br>何故トロイ型が次々と生まれるのか、フィリピン人と結婚されて一度も奥さんの実家へ行った事すらない、これでも私の妻はフィリピーナです、私がこの地で苦労しながら各地を見てきた知識からすれば考えられません、今はネット社会で情報だけならば直ぐに得られるでしょう、でも場を踏む事は惜しむべきではありません、やがて滅びる方向へ向かない為にも時間の遣り繰り等をつけてでも行って見て体験して経験を踏むべきかなと思います。<BR><br><BR><br>さすれば容易にフィリピンで事業を起こせるとは思われないはずですから。</FONT></P>

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