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投稿者:wajin128
【水陸行 60日(二か月)】の意味について ?   【悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也】 上の文章は大変重要です。 わかり易く説明する為に、文章を区切って訳す事にします。 --------------------- 【故鄭重賜汝好物也】 汝の好む物を鄭重に賜う也。 【汝の好む物を、鄭重に賜う】と言う事は、魏の方から卑彌呼に対して 「褒美として欲しい物が有ったら述べなさい」 と声をかけられ、これに答えて卑彌呼は 「この品を下さい(銅鏡百枚)」 と申し出たと思われます。 --------------------- 【悉可以示汝國中人 使知國家哀汝】 使は (贈物の) 悉くを汝の國中の人々に示し、 以って汝への感謝の気持ち (哀) を示す。 --------------------- 【南至投馬國 水行二十日】 【南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月】 【水行二十日】【水行十日 陸行一月】は【奴國】【投馬國】【邪馬壹國】の人々に、感謝の証としての贈物を、示す為の日数と考えています。 また【土地山險 多深林 道路如禽鹿徑】【草木茂盛 行不見前人】と言った厳しい旅を強いられたのも、贈物 を各國の人々に示す為だったと考えます。 およそ一日に示した倭人の戸数(世帯数)は【二千戸以上 (140,000戸÷60日)】になります。 --------------------- 【使知國家哀汝】 魏國は汝の働きに感謝 (哀) している。 使(郡の使者)は汝の國民に、これを知らす。 ** 【哀】は、臣下に対する最大級の感謝の言葉 ** --------------------- この時の使者となって倭國を訪問したのは【梯儁】です。 【梯儁】は【正始元年(240年)】に倭國を訪問して、女王に金印と詔書、そして贈物を届けています。 『 晉書 』四夷傳(東夷条)倭人、に次のような記述があります。 【漢末 倭人亂 攻伐不定 乃立女子爲王 名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶】 上の文章で注目して頂きたいのは【其後貢聘不絶】です。 --------------------- その後も【貢聘】は絶える事なし --------------------- 【貢聘】とは、友邦として朝貢に招くと言う意味です。 つまり 卑彌呼 は魏の同盟國の王として、招かれ朝貢した事になります。 中国の辞書に【聘】は 「友邦の訪問を指す」 とあります。   https://blogs.yahoo.co.jp/wajin128/36989503.html
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