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教誨師 堀川惠子 投稿日:2018年11月11日 07:31:10 No.14 【返信】

 


半世紀にわたり、死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち会い続けた教誨師・渡邉普相。「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束のもと、初めて語られた死刑の現場とは? 死刑制度が持つ矛盾と苦しみを一身に背負って生きた僧侶の人生を通して、死刑の内実を描いた問題作! 第1回城山三郎賞受賞。


Re: 教誨師 堀川惠子 投稿日:2018年11月11日 08:06:58 No.15
白木雄一(仮名)

真面目な縫製職人の評価を着実に得ていた白木雄一(逮捕時28才)売春婦の連続殺人、3人目に重傷を負わせた所で逮捕。殺し方が鋭いナイフでひどく切り付けられ凄惨な手口が話題に。

3才で両親に捨てられ、養父に放置されつつ旅館を転々。どこでも邪魔者扱いされて育った不幸な生い立ちと精神の深い傷。

大久保清の連続殺人事件が話題になった際、珍しく語りだす白木。


「マスコミは最近、大久保清でもちきりですがね、あの事件を正しく伝えている者は一人もおりません。私には分かるんです。大久保清は私と同じ種類の人間です。時々、強姦もしているけど、本当の目的は強姦なんかじゃありません。いわば強姦は前戯です。本当の目的は、殺しなんです。女を殺すのが、気持ちよくてたまらないんですよ」


幼時の育ち方で人間はそこまで行くとショックなくだり。渡邊を驚かせつつ、判明していない3人の余罪を口にする白木。被害者はいずれも女性、白木の不幸の重さは形容できないレベル。子供の頃の猫殺しも告白、人間にとって幼時の愛情がいかに一生を左右する重大事か考えさせられる。


白木は死刑判決にも徹底してドライで、感情の揺れがなかったらしい。その心が哀れ。小さい時に、心が死んだ(殺された)のだとしか…
Re: 教誨師 堀川惠子 投稿日:2018年11月11日 08:37:43 No.16
高橋正彦連続殺人事件

【事件概要】

 1967年から翌68年にかけ、都内の飲み屋の女性3人を殺傷した高橋正彦。彼は10代の頃にも幼女を殺害していたという前科があり、さらに死刑判決を受けた後に獄中で2人の少女殺害を告白する。


事件1

 1968年1月1日夜、東京・渋谷の連れ込み旅館で、女性が死んでいるのが発見された。通報を受けて、警視庁捜査一課の刑事たちが現場に急行したが、その中には平塚八兵衛氏もいて、平塚刑事は現場を見るなり「うひゃあ、ひでえ」と漏らしたという。

 女性の死因は出血多量。実に97か所もの刺し傷があった。ミゾオチ部分からへその真下まで縦に切り裂き、乳房もえぐられているという無残な状態だった。

 この被害者はA子さん(34歳)と判明した。早々にわかったのは、この女性が過去に二度、売春容疑で逮捕されていたからである。

 A子さんは渋谷の「のんべえ横丁」にある小料理屋で働いていた。この勤務先から現場の旅館までは200mも離れていない。
 この日、小料理屋は元旦であるが夕方の5時に開店した。この日の客には、おとなしそうな25、6歳の、黒っぽいジャンパーを着た工員か職人風の男がいた。店主によると、顔はあまり特徴がなく、別段様子も変わったところがない男だった。男が6500円の代金を払って店を出ると、A子さんは「ちょっとそこまで送ってくるから」と男の後を追い、そのまま店には戻らなかった。

 現場の旅館の従業員によると、被害者が男と寄り添ってやって来たのが午後9時ごろのことだったという。男は「3時間ほど休ませてくれ」と言った。午後11時15分、男は一人で階下に降りてきて、「連れの女は30分くらいあとで帰る」と言って千円札を出した。男はおつりを受け取らずに宿を出て行き、その30分後に様子を見に行った従業員が遺体を発見するのである。通報は午後11時54分。ちなみにA子さんの死亡推定時刻は午後10時頃である。

 飲み屋でも旅館でも、この男は初めて見る顔だったという。
 この事件の捜査は難航した。捜査本部は4月に解散となっている。

*平塚八兵衛  
“オトシの八兵衛”と呼ばれた名刑事。昭和14年2月警視庁巡査となり、50年3月警視で退官するまでの間、警視総監賞97回、警察長官賞、検事総長賞、検事正賞など、難事件解決での表彰は100回以上の記録保持者。


事件2

 1968年の7月、新宿区三光町の飲み屋で事件は起こった。
 この店は2階で女将B子さん(当時48歳)と泊まることもできる店だった。B子さんが「上にあがるかえね」とたずねると、客の若い男はうなずき、2人は2階の一室に入っていった。
 2人が室内で関係を持っていると、男は突然B子さんの腹をナイフで刺した。B子さんの「痛いじゃないの!」という声にびっくりした男は裸足のまま逃げ出したが、声を聞きつけた隣の店のママとバーテンが男を追いかけた。さらに通りかかった学生も加勢し、男は3人に取り押さえられた。刺されたB子さんは全治三週間の怪我を負った。

 男は上野の洋服店に住み込みで働いていた仕立て職人・高橋正彦(当時28歳)。元旦に起こった渋谷の女性殺し、さらに前年の夏にあった浅草の女性殺しをも自供、さらに10代の頃には7歳の少女を殺した前科もあった。


事件3

(浅草事件)
 1967年8月2日、高橋は浅草寺の境内の方向へと歩いていた。そこにはおでん屋があった。ここの女将C子さん(41歳)とは顔なじみであった。すでに先客がいたが、構わず酒を飲んだ。先客が店を出てC子と2人っきりになると、高橋は話をきりだした。以前から女の世話をしてくれるようにC子さんに頼んでいた件である。しかし良い返事は聞けず、高橋が「じゃあ、あんたでもいいよ」と言うと、C子さんはそれに対して「いいけどさ、今夜はうまくないよ」と答えた。高橋はこの言葉に「馬鹿にされた」と感じ、持っていたナイフでC子さんに襲いかかり、殺害したのである。ちなみに常にナイフを持ち歩いているのは「護身用」だったという。






 高橋正彦は1940(昭和15年)、北海道の豊原市(樺太)で生まれている。生後3ヶ月で市内の旅館の養子となった。終戦後、養父母は別居し、高橋は優しかった養母とはなればなれになり、以後厳格な養父に育てられることとなった。

 1947年に函館に引き揚げ、続いて稚内で暮らすこととなった。養父はヤミ商売をはじめて、家を空けることが多くなり、高橋少年は学校から帰ると孤独に過ごしていた。この間、動物をいじめたり、殺したりしていたという。

 1949年頃から養父は旅館の番頭となり、父子は住み込みで働くため稚内から旭川、留萌を転々とした。これは高橋にとって屈辱の日々だったという。学校は嫌いになり、親に対しても不信感が高まっていた。
 
 高橋が自分を養子と知るのは17歳の時のことである。高橋は自分の性格の問題点をよくわかっており、この性格形成のうえで、養母が家を出て行ったことが大きいと考えていた。養母がもっと自分に教育をするべきだったと考えたのである。このことから養母のことは好きだったが、同時に憎くもあった。さらに女性全体に対する嫌悪感も強かった。浅草の事件でも、渋谷の事件でも、新宿の刺傷事件でも、被害者は高橋よりも年上である。これらの殺傷事件は、高橋が母親を追い求めた結果にも見え、「マザコン殺人」とも言われる。

 高橋は常磐中学校を出ると、旅館の雑用をしながら定時制高校へ進む。この年の6月には帳場の金を盗んで、母がいると聞いた仙台に行こうとするが警察に補導された。その後、青森県弘前市の瀬戸物店で住み込みで働いたが、やはり店の金を盗み、上京した。だがまた補導され、当時父が住み込みで働いていた弘前の旅館で同居した。

 高橋と顔なじみのD子ちゃん(7歳)という少女がいた。旅館の近所に住む子で、11月のある日、D子ちゃんが旅館に遊びに来た。高橋はこの少女を3階の部屋に連れ込んで乱暴しようとしたが、言いつけられると困ると思って絞め殺している。D子ちゃんの遺体は押入れに隠し、現金11万円を盗んで再び東京に向かった。しかしまもなく浅草で発見され、翌年青森地裁弘前支部で懲役15年を言い渡された。青森刑務所、盛岡少年刑務所、宮城刑務所で服役した。服役中の評判は良かったという。

 1966年、仮出獄の許可が出る。すでに20代半ばとなっていた。高橋は仙台に住む養母に引き取られ、刑務所で習得した仕立ての技術で、市内の洋服店に勤めた。待望であったはずの養母との暮らしは、空白期間の長さからか、なぜかぎくしゃくした。そして周囲の反対を押し切って、上京したのである。都内でも仕立ての仕事をしたが、職場では無口で真面目な人柄だった。逮捕当時は29歳の美容師の恋人がいたという。

 1951年の築地・八宝亭事件などで活躍した捜査一課のO係長という人物がいた。高橋がD子ちゃんを殺して上京した時、O氏が彼を発見した。O氏は弘前に向かう夜行列車に同乗し、そのあいだ父子のように語り、弁当やお菓子を食べさせた。
 高橋が新宿の三光町の事件で逮捕された後、取り調べ室で久し振りに警部補となっていたO氏と対面した。最初高橋はこの男性がO氏と知らなかったが、気づくと大粒の涙を流しながら「あの時の夜行列車の弁当はうまかった」と話し始め、他の事件の自供も一気に始めた。


【告白1】

 1954年5月6日、北海道旭川市である少女が死んだ。
 幸子ちゃん(6歳)という小学1年生の女の子で、ハサミを持って駈け出してきた級友と廊下でぶつかり、医務室に運ばれたものの出血多量により死亡したのである。この出来事は「子供同士の不慮の事故」ということだった。

 この「事故」から17年後、高橋は獄中から突如「あれは自分が犯人だ」と告白するのである。

 「事件」当時、高橋は当時中学2年生だった。高橋の告白手記がある。

” この日、私は学校を休んだ。かばんを持って家を出たが休むつもりであった。学校まで20~30分かかるが、学校の近くの九条通りを13丁目まで行き、六条13丁目へ向かった。午前9時近くであった。大成小学校の玄関の前を通り、便所の横を通り、遊園地に出ようとしたのです。そのとき、便所の横を通るとき、ガラス戸から中をチラッと見たとき、おんなの子が便所に入るのが目についたので、そのとき私はすぐ殺意が起こり、玄関から便所に入りました

 向かって左側三番目の便所が少し開いており、(中略)子供は用便をおわり、ちょうど出ようとしたのです。私は左手で子供の首を板壁に押えつけ、声を出さないようにしておいて、右手にもった細身のクリ小刀で子供の左上腹部を衣服の上から一回刺したのです。1cmぐらい刺さったように思ったが実際には7cmぐらいである。すぐ抜くと同時に首の手をはなした。血は出なかったが小刀に血がべったりついていた。子供はうめき声をあげ腹をおさえ腰を落とすような格こうになり私の顔を苦しそうな目で見ていた。

 声を出すようならメチャクチャに刺して殺そうと思ったが、苦しくて声も出ないようであった、時間にして一分ぐらいであるが、様子を見ていたが、子どはフラフラしながら出口のほうへ戸をつたうようにして出て行った。私はかばんを持ち便所の出口へ向かった。

 その時、子供は出口のところに寄りかかるようにして、柱につかまっていたのが目についたが、その横を通り玄関から外へ出たのです。左に曲がり、便所の横を取ってグラウンドの端を通って、道路に出て図(地図の絵)のように歩いたのです。便所の脇で小・中学生が3、4人遊んでいたのが目についたが、私の方には気がつかないようであった。

 新聞は夕刊をみました。子供は、出口から7mぐらいはなれた玄関に近い教室の手前で、倒れていたところを発見して医務室へ運んだが、すでに意識がなく死亡したと載っていた。しかし、私を目撃したものがおらず迷宮入りとなったのです。”


 第一報によると、幸子ちゃんは1時間目の工作の時間中にトイレへ行った。担任の教諭は幸子ちゃんがいなくなったことに気づいていなかった。そしてまもなく血まみれになっているのを通りかかった6年生担当の教諭が発見した。ハサミを持った同級生とぶつかったという光景は誰にも目撃されていなかったのである。

 幸子ちゃんは暴行を受けた形跡はなく、また工作の時間中の出来事なので、子供同士の過失というのも当然考えられる。幸子ちゃんの両親は「できれば子供同士の過失事故であってくれればと願っています」と談話で述べていたが、同級生の持ち物のハサミから小さな人血の痕が認められたため、過失の方向へ落ち着いていった。子供同士の事故であるから、当事者の将来のことも考えて、この出来事についてさらに詳しく調べられることもなかった。幸子ちゃんにぶつかったとされる同級生は「人殺し」と呼ばれ続け、大人になって重いノイローゼに苦しんだと伝えられる。


【告白2】

 高橋はさらに5ヶ月後の1954年10月24日、やはり旭川市内でかおるちゃんという少女を殺害したことを、同じ手記で述べている。

” 10月下旬、多分、24日の日曜日か25、6日か、はっきり覚えていない。果物ナイフを持って旭川4の7の映画館の看板を見て歩いたが、東宝劇場の看板を見たら「七人の侍」を上映中であった。歴史物に興味があるので切符を買って入った。入口から入って左側のの席であった。

(中略)

 午後3時ごろ、帰るつもりで席を立ち、後の壁にもたれて15分ぐらい見ていたら、前席の出入口から出た子供の後を追って図説のように婦人用便所に入った。

 向かって左側の便所の戸が開いており、私が入ろうとすると、ちょうど子供が出ようとしたので、私は子供の中に突きとばし、起き上がろうとしたところを左手で首を押え、右手でズボンのポケットから果物ナイフを出して、子供の左側の首を一度刺したところギャッといって泣き出したので、もう一度刺した。さらに刺そうとしたら子供に低い声で『痛いよう』といわれ、私は我にかえり・・・

(中略)

 ・・・ナイフをズボンに納め、そのまま鳴き声を背に聞きながら歩いて玄関から出た。入口に受付嬢が一人いたようだが顔は見なかったし、相手も見ていないようだった。その足で家に帰った。すぐ風呂のストーブの火を炊いた。3時30分過ぎごろと思う。ズボンのポケットがナイフについた血でぬるぬるしていた。私自身、左手の指など3か所ぐらい切っていた。今でも苦痛にゆがんだ、おかっぱ頭の顔を思い出す。

 その日の私の服装ですが青いセーターに黒のズボン、頭は坊主であったが髪は伸びていた。この青いセーターは旅館に出入りしている生花の渡辺という先生に作ってもらったものです。数日後、精薄の12歳ぐらいの少年が調べられていたが犯人でない。

 私は情性欠如といわれる通り、顔色には出ないし、人を殺しても普通人とはなんらかわらぬ態度をしているので犯人とはわからないのです。”


 このかおるちゃん殺しでは、14歳の知的障害を持つ少年が逮捕されている。
 かおるちゃんも高橋と同じように旅館の番頭の娘であった。この日は母親と一緒に東宝劇場へ「七人の侍」を観に来たが、上映の途中で「おしっこしたい」と言いだした。母親はかおるちゃんを一人でトイレに行かせたが、場内に戻ってきたかおるちゃんは「青い服を着たおじさんに首を絞められた、痛い」と呟く。母親がかおるちゃんの首筋を触ってみると生温かい。廊下に連れ出してみると多量の出血をしていた。かおるちゃんはすぐに病院に運ばれたが、まもなく死亡した。

 この告白については、新たな事件調べのため死刑執行を伸ばそうとするデタラメのものとする見方もある。この2人の殺害方法は似ており、ともに1954年(幸子ちゃん事件の2週間前)に東京・文京区で起こった鏡子ちゃん殺人事件をモチーフにしていると見られる部分が目立つ。さらに地元で起こった事件ならば、幸子ちゃんやかおるちゃんの事件を知っており、新聞記事を熟読していた可能性が高い。高橋は当時、新聞記事を読み、そのことを強くイメージしたため、妄想の手記で詳細な記述ができたという見方も出来る。

 しかし、あるいは本当にやっていたのかもしれない。旭川がいかに北海道有数の大きな街だといっても、たてつづけに幼い少女がトイレに行った時に刺されて亡くなるというのは不自然である。幸子ちゃんと学校の廊下でぶつかったとされる同級生には返り血はついていなかったというし、小学1年生同士がぶつかって、それが致命傷となるというのは偶然が重なり過ぎている。

 大人になった高橋は都内で3つの事件を起こした。新宿の事件でヘマをして逮捕されたが、あれがなければまだまだ捜査線上には浮かんでこなかったし、また次の殺しをしていた可能性がある。すぐに捕まらなかったのは、おとなしく、目立たず、真面目なその人柄もそうだが、手記で自分が書いているとおり殺しをしても動揺せずに普段通りに過ごせる点が大きい。そんな少年が当時旭川に間違いなくいたのである。そしてその少年は2年後にも幼い女の子を手にかけていた。

 手記は真実か妄想か、真相はわからないまま、1972年8月に高橋の死刑が執行された。



ハチはなぜ大量死したのか ローワン・ジェイコブセン 投稿日:2018年10月07日 20:39:19 No.13 【返信】





頭が痛い、お腹の調子がわるい、風邪をひいた、咳がでる。頭痛薬、整腸剤、風邪薬、去痰剤……。なにかというと、私たちはすぐに薬を飲む。そしてなんとなく治った気分になる。この間に起こったことは一体何だろう。生命現象における動的平衡がいっとき乱れ、そのシグナルとして不快な症状が表れ、まもなく動的平衡が回復されたのである。薬が何かを治してくれたわけではない。薬は単に、不快な症状が表れるプロセスに介入して、それを阻害しただけである。ひょっとするとその介入は、動的平衡状態に干渉して、復元を乱しただけかもしれない。

動的平衡は、生物の個体ひとつに留まっているわけではない。平衡が動的であるとの意味は、物質、エネルギー、情報のすべてが絶え間なく周りとのあいだで交換されていて、その間に精妙な均衡が保たれているということである。動的平衡の網目は自然界全体に広がっている。自然界に孤立した「部分」や「部品」と呼ぶべきものはない。だから、局所的な問題はやがて全体に波及する。局所的な効率の増加は、全体の効率の低下をもたらし、場合によっては、平衡全体の致命的な崩壊につながる。

その原題を「実りなき秋」(Fruitless Fall)と名づけられた本書『ハチはなぜ大量死したのか』(ローワン・ジェイコブセン著・中里京子訳)は、アメリカのミツバチのあいだに急速に拡大しつつある奇妙な病気、蜂群崩壊症候群(CCD, Colony Collapse Disorder)について克明に書かれたものである。二〇〇七年までに北半球のハチの四分の一、三百億匹が死んだというのだ。

薄皮を一枚ずつ剥いでいくように謎を追う筆致はスリルを極め、近年読んだ科学ノンフィクションの中でも出色だ。

この本を読みながら、私の頭の中で、ずっと二重写しになっていたことがある。それは狂牛病の問題だった。狂牛病禍は、食物連鎖網という自然界のもっとも基本的な動的平衡状態が人為的に組み換えられたことによって発生し、その後の複数の人災の連鎖によって回復不可能なほどにこの地球上に広まった。

乳牛は、文字通り、搾取されるために間断なく妊娠させられ続ける。そして子牛たちは、生まれるとすぐに隔離される。ミルクは商品となり、母牛の乳房を吸うという幸福な体験を覚えた子牛を母牛から分離するのが困難になる前に。子牛たちを、できるだけ早く、できるだけ安く、次の乳牛に仕立て上げるために、安価な飼料が求められた。それは死体だった。病死した動物、怪我で使い物にならなくなった家畜、廃棄物、これらが集められ、大なべで煮、脂を濾し取ったあとに残った肉かす。それを乾燥させてできた肉骨粉。これを水で溶いて子牛たちに飲ませた。死体は死因によって選別されることなどなかった。そこにはあらゆる病原体が紛れ込んだ。それだけではない。安易にも人々は、燃料費を節約するため、原油価格が上がると工程の加熱時間を大幅に短縮した。こうして、羊の奇病であるスクレイピー病に罹患して死んだ羊の死体に潜んでいた病原体が、牛に乗り移った。消化機能が未完成の子牛たちに感染することなど、病原体にとってそれこそ赤子の手をひねるよりも簡単だったに違いない。ほどなくして、病原体は、牛を食べたヒトにも乗り移ってきた。草食動物である牛を、正しく草食動物として育てていれば、羊の病気が種の壁を越えて、牛やヒトに伝達されることは決してなかった。牛が草を食べるのは、自然界の中で自分の分際を守ることによって全体の動的平衡状態を維持するためである。三十八億年の時間が、それぞれの生命に、それぞれの分際を与え、その関係性に均衡をもたらしたのだ。できあがるまでにとてつもない時間がかかる動的平衡は、しかし、ほんのわずかな組み換えと干渉と介入があれば、一瞬にして破られることがある。

植物と昆虫の共生関係は、自然界の動的平衡が最も精妙な形で実現されたものだといってよい。花は、私たちヒトの心を和ませるためにあるのではない。ハチをはじめとする虫たちの心を捉えるため、進化が選び取ったものである。もし、私たちが和むとすれば、それは均衡の精妙さのためであるべきだった。私たちはその観照をたやすく放擲して、ただひたすら効率を求めた。高収益をもたらすアーモンドの受粉のために、ミツバチたちは完全に工業的なプロセスに組み込まれた。そして極端に生産性を重視したハチの遺伝的均一化が進められた。ハチを病気や寄生虫から守るため、各種の強力な薬剤が無原則に使用された。
この結果、何がもたらされたのか。ミツバチたちのコロニーは、崩壊寸前の、まさに薄氷の上におかれたのだ。

そしてそれがやってきた。狂牛病のケースと全く同じく、それは人為が作りだした新たな界面の接触を利用して、たやすくハチに乗り移ってきたのだ。ハチは狂いだした。細かく役割分担されていた集団の統制がたちまち乱れ、ハチたちはある日一斉に失踪する。女王蜂と夥しい数の幼虫、そして大量のハチミツだけが残され、巣は全滅する。

病原体の正体はなお明らかではない。この点も狂牛病と似ている。この本の三章、四章にあるとおり、ここには病気の媒体としてある種のウイルスが関与しているように見える。ハチのコロニーが崩壊した巣箱を再利用すると、新しいコロニーも全く同じ症状に陥るからである。スクレイピー病が発生した草地で、新たに羊を飼うと感染が起こることに酷似している。原因が未知のウイルスなのか、あるいはその他に起因があるのか、それは今後の研究に期待するしかない。

本書は単に、ハチの奇病についてレポートしたものではない。より大きな問題についての告発の書であり、極めて優れた環境問題の書であるといえる。それは私たち人間が、近代主義の名において、自然という動的平衡に対して無原則な操作的介入を押し進めた結果、何がもたらされうるか、すでに何がもたらされたかという告発である。狂牛病は、そして蜂群崩壊症候群は、まぎれもなく動的平衡状態が乱されたことを示す悲痛な叫び声であり、自然界からのある種の報復でもある。

では、私たちは一体どうしたらよいのだろうか。その答えも本書の中にある。病気に対して手当たり次第、薬を飲むごとく、操作的な介入を行うごとき行為の果てに答えは存在しない。答えは、自然界が持つ動的平衡の内部にしかない。病気に耐性を持つハチとして本書で紹介されるロシアのミツバチたちが身をもって示したことは何だったか。病気への対応は、乱された動的平衡状態が、次の安定状態に移行する過程で見出される復元力(リジリエンス)としてしかあらわれることはない。本書の最も重要なメッセージはここにある。復元もまた動的平衡の特質であり、本質なのだ。

事態はさらに深刻であり逼迫している。私たちはひょっとするとその復元力さえも損なうほどに、自然の動的平衡を攪乱しているかもしれないのだ。

ある人が私に語った言葉が忘れられない。狂牛病を防ぐために何をすればよいか。
それは簡単なことです。牛を正しく育てればよいのです。_福岡伸一





ボヘミアの醜聞 Sherlock Holmes 投稿日:2018年08月13日 23:16:54 No.12 【返信】






狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり 吉田兼好 投稿日:2018年04月23日 18:13:24 No.9 【返信】

(´・ω・`)「吉田兼好法師の徒然草の有名な一節だよ、お兄ちゃんも聞いた事あるでしょ?」

彡(゚)(゚)「せやな、どっかで聞いた事あるわ」

(´・ω・`)「つまり狂人の振りをしているつもりでもそれを実際にやっちゃうような人は狂人と同じだよって意味だね」

彡(゚)(゚)「ふむ、まぁたしかにそうかもなぁ、なかなか的を得てる言葉やね」

(´・ω・`)「・・・まぁ、うん」

(´・ω・`)「たしかにこの一節だけでも含蓄がある良い言葉だと思うけど」

(´・ω・`)「この一節はあくまで例えであって主旨じゃないんだ」

彡(゚)(゚)「ほーん、じゃあ何が言いたかったんや?」

(´・ω・`)「それを知る為にこの一節が含まれている徒然草第八十五段全文を見てみよう」


人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。
されども、おのづから、正直の人、などかなからん。
己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。
至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。
『大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす』と謗る。
己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ
この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを賢といふべし。


彡(゚)(゚)「ほならね・・・」

(´・ω・`)「ちょっとお兄ちゃん!そこは主眼じゃないんだから脱線しないように」

(´・ω・`)「本文のままだとわかりづらいから順番に現代風に訳していこうか」

・人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。
・されども、おのづから、正直の人、などかなからん。

人の心というのは素直なだけではないので、捻くれた態度をとってしまう事もある
しかし最初から正直な心を持つという人も稀にはいるだろう

・己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。
・至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。

素直な心を持てず、賢い人を羨むのは普通の事である
しかし凄く愚かな人は、賢い人を憎んでしまう


(´・ω・`)「簡単に言うと羨望は普通の事だけど、憎むほどまで行く人は相当な愚か者って話だね」

彡(゚)(゚)「うーん、でも羨望から嫉妬になり憎むって流れは通ずる物やないか?」

(´・ω・`)「たしかにね、だけどそのラインを超えないようにするのが大事だというのをこれ以降から読み取れると思うよ」

・『大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす』と謗る。
・己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ
・この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。

愚かな人は成功者や人望のある人に対して
『利益を捨てたり損をして褒められてる奴は、より大きな利益や名誉を得る為にやっている嘘付きのカッコつけだ』と罵る
自分と違う心根の人間を認められず的外れな批判をしてしまう
こういう人はずっと愚かなままで、小さな利益すら捨てる事が出来ず、賢い人から学ぶ事が出来ない


(´・ω・`)「このくだりは個人的には凄く面白いなって思うよ」

(´・ω・`)「700年前の人達も成功者に対して、嘘付きのカッコつけ、っていう嫉妬や批判をぶつけてたんだなぁって」

彡(゚)(゚)「人間の本質なんて数百年程度じゃ変わらんのやなぁ」

彡(゚)(゚)「せやけどこの批判は的外れとも言えないんちゃうか?」

(´・ω・`)「まぁ正直ボクもそう思うよ、より大きな利益や名誉の為に計算して立ち回った成功者もいるよねって」

(´・ω・`)「だけどそういう意識を持ち批判に発展させる事の無意味さを『愚かな人』だと評しているんだなと、僕らも気を付けなきゃね」


狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。

・狂人の真似だと言っても、実際に大通りを走り回ればそれは狂人である
・悪人の真似だと言っても、実際に人を殺したらそれは悪人である
・驥(凄く速い名馬)から学ぼうとすれば同じ類の名馬になれるし
・舜(古代の名君)から学ぼうとする王は同じような名君になれる

(´・ω・`)「さあ、有名な一節が来たね」

彡(゚)(゚)「なるほど、たしかに狂人の真似~ってのは例えの一つとしての一節なんやな」

(´・ω・`)「うん、例えを並べて実際の行いこそがその人を作るって話をしてるんだ」


・偽りても賢を学ばんを賢といふべし。

素直な心を持てず嫉妬心があったとしてもそれを偽り、賢い人から学ぼうとすればそれは賢い人であると言える


(´・ω・`)「さあ、最後の一節だよ、ボクはこの一節が一番すき」

彡(゚)(゚)「たしかになかなかええ言葉やな、賢い人から学ぼうとする人は賢い人である、か」

(´・ω・`)「兼好法師がこの八十五段で言いたかったのは、愚かな人とはどういう人か、賢い人はどういう人か
そして賢くなる為に心がける事はなんなのかって話だと思うんだ」

彡(゚)(゚)「さすがに歴史に残る随筆集を書く人は大したもんやなぁ」

(´^ω^`)「愚かなお兄ちゃんも賢いボクに倣って賢い人になってね」

彡(゚)(゚)「・・・」





Re: 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり 吉田兼好 投稿日:2018年04月23日 18:19:41 No.10
 



死生観 三島由紀夫 投稿日:2018年03月08日 00:02:27 No.8 【返信】

 





日本紀行 イザベラ・バード 投稿日:2018年02月23日 20:57:00 No.7 【返信】

 






Patrick Lafcadio Hearn 小泉八雲 投稿日:2017年12月09日 22:25:39 No.3 【返信】

 




Re: Patrick Lafcadio Hearn 小泉八雲 投稿日:2017年12月09日 22:32:22 No.4
 


Re: Patrick Lafcadio Hearn 小泉八雲 投稿日:2017年12月09日 22:34:07 No.5
 


Re: Patrick Lafcadio Hearn 小泉八雲 投稿日:2017年12月09日 22:37:13 No.6
 


そんな国を捨てる馬鹿w







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