JETさんの投稿No1546が消されました。反証の小論文をA4 10頁用意しときました。一応, 抜粋しておきます。
①岡田奈々さんの3D化した動画の需要性。ご存知の通り, 美空ひばり記念館はファン層の高齢化・経済的体力の問題でとっくの昔, 閉館。→売却。NHKが威信をかけて作った番組 当初, 「気持ち悪い」という評価。ファンに聴いてもらっても「全く違う」という反応。ひばりも, 音程が微妙にずれる癖があった。
作曲家に聞くと Lemon米津玄師でさえも「楽譜通りに歌えていない」という。
岡田奈々は, 現在も生存しておりアニメ化したいという需要があるかどうか。勝手にYouTube動画配信するのは勝手ですが。ひばり3D画像は, 高齢者視聴者の為にNHKが仕掛けたのでしょう。
② <長寿アニメ番組の視聴率低迷>
サザエさんの視聴率
当初39.4% 1979年09月16日(日) 現在サザエさんの5月21日放送回の平均世帯視聴率は6.4%、平均個人視聴率は4.3%。
ドラえもん. 34.4%, 1985年11月10日(日),現在低迷。
③最後に「これが徳川家康位に遡ってしまうと実在の人物であっても生前の人隣りを知る人は全く存在しないので断片的な資料を基に様々な人物像をドラマや映画て以前から作り上げてしまっている訳で。」とありますが, 歴史学者は事実として起こったことを, 研究するのが仕事。その心情に迫ろうというのが, 小説家です。
さて, 徳川家康の人と成りについてですが, 一次史料を読むと「自分の手で下ひもを締めることが出来なかった」と書かれており, かなり太っていたことが十分に予想されます。また, 健康に気遣い, 自らの手で薬を調合していたことは, 広く知られています。
有名な甲斐の戦国大名・武田信玄の「風林火山」の旗。旗指物の研究を行った高橋賢一氏は, 「風林火山」という語句は文献に全く記載なく戦国史研究者の鈴木眞哉氏は井上靖の歴史小説『風林火山』が最初ではと考えています。
今回の「大河ドラマ どうする家康」の関ケ原の戦い。所謂, 関ヶ原合戦に於ける徳川家康の小早川秀秋への「問い鉄砲」の歴史。今回の『どうする家康』では, 放映されませんでした。これも時代考証の歴史学者 平山優先生のおかげでしょう。
永年, 映像化されてきたの関ケ原の戦いでの「問い鉄砲」描写の歴史について。
「慶長五年9月15日最初 小早川秀秋に徳川家康が20丁の鉄砲で2回問うた」というのも創作です。
『三河物語』(1)慶長五年9月15日「...金吾中納言(小早川秀秋)うらぎりをして, 切崩させ給ひ, ことことく大谷刑部少をはじめとし不残追討捕せ給ふ」
『関原始末記』「...刑部少輔(大谷刑部少輔吉継)が勢 暫く防ぎ戦ふといへども忽, 打ち負けぬと聞て刑部少輔, 其場 不去, 切腹」。(『どうする家康』では病気で白い布を被る)
当時の発給文書から, 小早川秀秋は関ヶ原合戦の前日には, 家康の東軍に与する事が決まっていました。
https://www.archives.go.jp/exhibition/pastpopup/011_04.html
『黒田家家譜』(2)で20挺の鉄砲 2回に分けて家康が福島正則に命じて松尾山にいる小早川秀秋に問い鉄砲(東軍に与するのか西軍に与するのか)を撃った話が出てきます。
(1)『三河物語』寛永3年(1626年)から同9年(1632年)頃に成立した三河物語諸本 『三河物語』(みかわものがたり)は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教(通称 大久保彦左衛門)による著作。
(2)『黒田家譜』(くろだかふ)は、福岡藩藩主・黒田家の公式歴史書である。3代藩主・黒田光之の命により、儒学者・貝原益軒が編纂した。原本は寛文11年(1671年)に編纂を始め、元禄元年(1688年)に完成した。
つまり関ヶ原合戦から70-80年経った後, 九州の黒田家が勝手に創作したのです。
また, 『どうする家康』で服部正成(二代目半蔵)が伊賀越えに同行しているように描いていますが, 抑々「伊賀越え」が出てくるのは, 本能寺の変から60年近く経ってから。服部正成(二代目半蔵)は岡崎生まれの岡崎育ち。伊賀に土地勘や忍びの訓練などしたこともない人間が案内など出来るはずもありません。半蔵門で有名ですが, これは姉川の戦い(1570年・28才)で一番槍や三方ヶ原(1572年・30才)での一番槍, その他多数の功名から。
あくまでも, ドラマはドラマであり, 時代考証や忍者考証の学者の意見より脚本が優先されるのです。
さて「これが徳川家康位に遡ってしまうと実在の人物であっても生前の人隣りを知る人は全く存在しないので断片的な資料を基に様々な人物像をドラマや映画て以前から作り上げてしまっている訳で。」との事。徳川家康の発給文書は, 膨大であり当時の心情を推察することは十分可能です。
私達が耳にする歴史物は, 殆どが司馬遼太郎だったり, 歴史小説家の影響をかなり受けています。
日本史最大の謎と言われる『本能寺の変』。「なぜ明智光秀は謀反を起こしたのか」。歴史学者は起こった事件を時系列的に他史料と照らし合わせて整合性や史料の成り立ちを研究。
一方, 小説家はその心情を描きます。一次史料だけでは分からない部分を独自の推理で辻褄が合うようにストーリーを書くのです。当方は, 歴史小説には何の関心もありません。当時の第一次史料では, どの様に描かれているのかに興味があります。
知り合いの歴史学者は, 「本能寺の変で織田信長はどの様に思ったのでしょうか」との問いに「びっくりしたのでは」との答えでした。「自分の気持ちもよく分からないのにまして他人の気持ちなど分かるはずもない」と。「一次史料が沈黙していることは, 沈黙する」。これが歴史学者のスタンスです。
細川文書(綿考輯録)『綿考輯録(緜考輯録)』は、肥後熊本藩主細川家の家史。全63巻。大日本史料ではこれを『細川家記』としてまとめているので、その名でも知られる。表題は「連綿と考えを輯(あつ)める」との意。
参考文献『忍者の歴史』山田雄司, 『忍者学大全』山田雄司編, 『甲賀忍者の真実』渡辺俊経, 『忍者の虚像と実像』山田雄司, 『誤解だらけの徳川家康』渡邊大門, 『関ヶ原合戦 全史』渡邊大門他多数。
最近の発見ではこんなことも。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b0fece39d0c60a4451085b755fa0cd3064c58d90
まとめ:これからの時代VFX・CGは多用されることでしょう。然しながら, 岡田奈々姫に関してはその要望は亜流で主流には成りえないと考えます。 |